噴火 その2

天慶8年(945)
霧島山噴火。[地学協会報告]

 

『襲山考』に言うには、「縁起および『僧性空伝』、『平家物語』等を考え合わせると、天慶八年に性空が・・・誠心をこめて山頂に登り、法華経を唱えること七日にして神勅を受けようと五日間滞在したが、全山震動して猛火を発し、しばらく止みそうにはなかった」。[福島厳之介編纂 鹿児島県噴火書類]

 

天永3年2月3日(1112.3.9)
西峯噴火。[三国名勝図会]

 

仁安2年(1167)
噴火した。[地理纂考]

 

霧島山大曼荼羅院西生寺は、梅北村益貫にある。初め小松内府平重盛が霧島山東麓の佐野に寺を建立して霧島山西生寺と号していたが、その後住持が尋誉上人の時にある夜神童が来て、「三日経って霧島山が噴火し、寺院は火災に遭うだろう。速やかに三里以遠に退去しなさい」と告げた。そこで僧侶たちは当時の本尊と鎮守の山王権現を奉じて、現在の地梅北に移った。はたして霧島山が噴火し、堂宇が焼け落ちた。実に仁安二年のことである。[三国名勝図会]

 

寿永2年12月17日(1184.2.7)
霧島山噴火。[ミルン氏調査]

 

文暦元年12月28日(1235.1.25)
噴火は甚だ盛んで、神社をみな焼き尽くした。 [三国名勝図会]

 

西御在所霧島六所権現すなわち霧島宮は、田口村霧島山西側の中腹にある。欽明天皇の頃に創建したと言い伝える。後に山上から噴火し(延暦七年〈788〉七月の噴火とする説がある)、寺社が焼亡してから年月が経った。最初、上古の神社は現在の社地から東一里十町に当たる霧島山の峯である矛峯と火常峯(西峯)との中間、脊門丘にあったが、天暦年間に性空が脊門丘から現在の地に神社を移して六所権現と号した。それからおよそ二百八十年を経て、文暦元年甲子〈1234〉十二月二十八日に山上からまた噴火し、神社・寺院および什宝、文書等をことごとく消失した。その後二百五十年ほどの間は、神社・寺院は共に廃され、ただ仮宮のみがあった。文明十六年甲辰〈1484〉に兼慶法印が往時の社地を入手することを得て、社殿を建立して六所権現を遷宮し、往時の壮麗さに復した。だから現在の地は村上天皇の時、性空が神社を遷した場所である。社殿が脊門丘にあった時は、高千穂神社と称しただろうかという。[三国名勝図会]