地震研究所所蔵の濃尾地震と明治三陸津波の「新聞切抜」帳について

北原  糸子(東洋大学),上田  和枝(東京大学地震研究所),河田 恵昭(京都 大学防災研究所)




 1. はじめに
 地震研究所には、1891年の濃尾地震に始まり1940年に至る半世紀間の、天変地異に関 する地震学教室の所蔵印のある新聞記事の切り抜き帳180冊余が蔵されている。いま から100年以上前からの新聞記事の切抜きが、当時無造作に張り付けられたままの一 連のスクラップブックは、災害研究の絶好の史料である。共同利用研究の一環として 、このスクラップブックのなかから濃尾地震と明治三陸津波に関するものを利用した ので、ここで簡単な分析を兼ね、紹介することにした。
 私たちの関心の中心は、どの様な観点から当時こうした新聞記事の切抜きが行われた のか、これらの切抜きを通して把握される上記の二つの災害像はどのようなものかと いうことである。そうしたことともに、あえてここでこれらを紹介する意図は、こう した新聞切抜きの初期のものには、もはや現代では本紙が閲覧困難な新聞からなされ たものも含まれると言う意味で、史料的に貴重な価値を持つものがあることを指摘し ておきたいと思うからである。

2. 収集された新聞誌  2-1 地域的特徴
 濃尾地震(1891.10.28)と明治三陸地震(1896.6.15)では、収録されている新聞が前者 で59誌、後者で26誌とその数において圧倒的な差がある。但し、濃尾地震の場合は、 こうしたデータの収集方式が初めて試みられたこともあって 、新聞誌名は判子が作 られ、その上に日付を書き入れるように即席で対応された形跡がある。現在その判子 の朱肉が薄れ、判読しがたいもの、あるいは当時既に切り抜いた新聞誌名が判らなく なり、出所不明のまま張り付けられているものも計6冊のうち1冊を占める。したがっ て、濃尾地震の場合は実際に対象とされた新聞は59誌を上回る筈である。5年後の明 治三陸津波の場合は、新聞誌名を印刷した見出しが作られており、こうした混乱は避 けられるように配慮されている。なお、明治三陸津波の場合もスクラップブックは6 冊、各冊は約60枚、表裏120頁という次第である。とりあえず、誌名の判るものにつ いて以下にその地域的分布を示そう。
   表に明らかなように、濃尾地震の場合は、北海道から九州の宮崎までほぼ全国に及ぶ のに対し、明治三陸津波の場合は、収録されている新聞26誌のうち東京、大阪で発行 されるいわば中央誌と呼ぶものがそのうちの18誌を占め、残り8誌のうち近江新報を 除く7誌のうち2誌が北海道、5誌が東北である。このことから、災害を伝える新聞は その都度求められ、記事が切り抜かれたと推測される。では、それぞれの災害に求め られた情報とはどのようなものであったのか。次にそのことを見てみる。

3. 切り抜かれた記事の特徴
 3-1. 収録期間
 新聞記事は一紙面に当該災害関連記事があれば、その記事ごとに切り抜かれ張り付け られるから、結果的には、一紙面を構成していた記事が分散してあちこちに張られ、 一見災害記事が当時の新聞において占めた量がとてつもなく多かったかの印象を受け るが、必ずしもそうではない。それぞれの記事の収録期間は、濃尾地震が災害の発生 翌日の1891年10月29日から同年の12月27日、このうちでも記事の集中するのは、10月 29日ー11月7日程度、災害発生から10日間、これに対して、明治三陸津波の場合は、6 月19日ー10月8日、但し、記事の集中するのは6月21日から7月7日程度、即ち災害発生 から20日強の期間である。

3-2. 記事内容
 では、新聞記事の内容からはどのような傾向がうかがわれるのであろうか。これを a)災害発生の情報 b)被害対策 c)災害調査 d)義援金などの各項にわたって、災害 の記事に現れた傾向をみることにする。
a) 災害発生の情報:濃尾地震の場合、災害発生の翌日10月29日の段階では、浜松・ 福井・金沢・舞鶴・敦賀・桑名・神戸などの被害が報じられたのみで、激震地であっ た岐阜・名古屋の被害は新聞では報じられていない。これは、電信の不通、鉄道の寸 断によるものであった。大阪では府庁の石造りの建物にひびが入り、砲兵工敞の煙突 が折れ、紡績工場の煙突の崩落よる壁の崩壊で多数の死傷者が出るなど目立った被害 が大きかった。大阪の新聞はこれらの記事を29日に紙面で報じたものの、やはり激震 地の岐阜・名古屋などの被害情報を集めてはいない。理由は、電信の途絶である。10 月30日段階で被害が比較的軽かった地域は、通信網が活用できたため、地域的情報が 収集され、一定範囲の被害が紙面を占めた。三重県伊勢新聞の場合は、三重県各郡の 被害を報じ、「概括して信濃・尾・参・勢等其の中心となりしものと信じて大過なか るべし」(伊勢新聞10/30)としている。岐阜・大垣などの被害の惨状がいち早く報 せられたのは、被害地に近い神戸の場合であった(神戸日報10/30)。また、10月30 日の段階になると、岐阜を除く各地の被害が各県庁から内務省、各地の郵便電信局か ら逓信省、各測候所から中央気象台、名古屋の場合は第三師団の被害が陸軍省、名古 屋の監獄の建物被害が司法省へ報じられ、東京の各新聞社がそうした情報を載せるよ うになり、この地震の被害の様相が段々明らかになる。岐阜の状況は名古屋を経由し た電信で、「岐阜・笠松・竹川等の震災特に甚だしく人家皆潰れたり」(朝野新聞10 /30)という漠然たる情報がようやく報じられた。これ以降逐次詳細な被害情報が紙 面を占め、死傷者・倒壊家屋・鉄道被害などについての具体的数値が見られるように なる。被害集計も愛知県の死者2351人の2倍以上5173人を出した岐阜県のものが新聞 に収録されるのは11月5日で、約1週間の差が出ている。こうした情報は総て警察など 官庁に収集されたものを掲載するものであった。新聞社には自らの足と手で集めると いう能力が備えられていない時代であるから、どの新聞でも同じものが掲載された。 この段階では、災害報道は官報によるものが大半を占めたのである。こうした状態に 対して、各紙面に違いが出て来るのは、特派員が派遣され、彼らが目でみた震災の惨 状を自らの言葉と絵などで報ずるようになってからである。濃尾地震の場合は特派員 報告が大きな位置を占めてはいなかった。この点で大きく異なるのは、明治三陸津波 の場合の災害情報である。
 明治三陸津波の場合は、災害発生の報道は2日後の6月17日地元の「岩手公報」で、遠 野16日午前9時45分発の電報として「昨夜釜石町海嘯の為め全町過半流失・・・」と 報道された。「東京朝日新聞」も16日午後3時35分仙台特発「牡鹿本吉二郡に海嘯起 こり・・・5百余戸、溺死者千余人・・・」と17日付けで報じている。ところが、被 災地が遥か三陸の太平洋岸であり、郵便電信局も流されたため、取り次ぐ中継地点が 当初は失われ、通信、交通すべて途絶の状態であった。スクラップブックには、この 当初の17日付けの「東京朝日新聞」は収録されていない。18、19日は、「国民新聞」 の記事があるのみである。6月20日から本格的に新聞記事の収録が始められた。政府 の被害調査、救援物資などの動きが始まるのもほぼ20日以降である。東京の各新聞社 は特派員、および画報員を派遣し、官報の統計数値だけに終わらない被災地の実情を 報道してそれぞれの新聞の独自性を打ち出そうとした。しかし、物資を送るのにも陸 路では困難であったため、軍艦竜田艦・和泉艦が使われたことに示されているように 、被災地に入ること自体がきわめて困難であり、情報を得ても、それを送信する手段 がないという状態であった。6月20日前後から始まるこうした特派員は当初は東北線 で仙台・一関まで行き、そこから志津川等海岸線に出て北上するか、あるいは盛岡・ 青森まで直行して車、馬、時に徒歩で太平洋沿岸の被災地に出て南下した。いずれの 場合も困難を極めた。各新聞に共通しているのは死体捜索の惨状である。死者が津波 の衝撃で倒壊、流された家屋の下にあり、その数が各村であまりに多いため、これら を収容する人手が極度に不足したという惨憺たる状況が綴られるものとなっている。 青森・岩手・宮城の各県の沿岸被災地を一巡した記者たちの新聞記事がおわるのが7 月7日前後である。その間、官報転載の被害集計も掲載されるが、災害情報の紙面を 多く占めるのは、特派員の現地報告である。このことを7月7日の「万朝報」は、次の ように述べている。

「●海嘯の報道と新聞各社
新聞紙ハ報道の一刻も早きを尊ぶ、去れバ今回の海嘯に就きても各社先を争いて通信 者を特派し、特派 員と特派員と宛かも戦争の如く又た競馬の如き有様なりしが、其 の働き振りと結果との優劣ハ大に読者 の参考とも為り、各社後来の心得とも為り詰 まる所ろ新聞事業を進歩せしむる材料ともなる者な れバ ここに公平に各社の掛引 き、各通信員の働き振りを記さん」
として、特派員2名を派遣した新聞社、東京日日・東京朝日・日本・時事新報・中外 商業新報・中央・万朝報の7社、通信員(現地採用雇員)を特派した社は東京日日・ 東京朝日の2社、画報員を出した社として時事新報・中央・万朝報の3社を挙げている 。かくしてこの「新聞切抜」も、この特派員らによる記事の終りを告げる7月7日前後 までの記事が収録されることになった。なお、この当時「津波」という文字は使われ ず、もっぱら「海嘯」という文字に「つなみ」とルビがふられている。
b)被害対策:濃尾地震は、近代国家になって初めて大量の死傷者を出した災害とし ての衝撃も大きかったが、東海道線の開通・煉瓦造りの駅舎・郵便電信局・工場およ び煙突など近代国家としての体裁を整えつつあった途上での大災害であったため、西 洋の近代技術万能主義で近代化を押し進めて来た政府にとっても衝撃であり、猛省を 促すものとなった。そのことは、当時帝国大学理科大学教授、貴族院議員の菊地大麓 がこの年の12月に「震災予防に関する問題講究の地震局設置建議案」即ち震災予防調 査会の設置を提案し、それが震災の翌年1892年から実施されることになったことに象 徴される。それのみならず、震災からの復旧も又、ひときわ政治の意志が込められて いた。それは、被害地を席巻する木曽三川の堤防復旧工事の名目で、2度の勅令をも って550万円が支出されたことに端的に現れている。
これに対して、明治三陸津波の場合は、現在の災害救助金にあたる備荒儲蓄金の規定 に基づく援助のほか、第二予備金による救済金3県合計45万2623円が支出されたに留 まった。これらの援助は災害の一時的窮民に対する臨時的救援にすぎない。三陸は当 時まだ、近代国家の社会的基盤への投資がなされてはいなかったから、救助費が濃尾 震災地にくらべ、格段に低いことが当初から予測されていた。
7月5日付「中外商業新報」は、被害地を特派員として一巡した桑谷武一郎の署名記事 として
「斯の如き大変災に当りては、備荒儲蓄の如きは、真に滄海の一滴のみ・・・ 愛岐 両県の震災の例を 追ひ、国庫は急に補助金を支出すべしと、然るに当時に於ける国 庫補助は主として堤防橋梁等の復旧工 事費に充てたるものにして今回被害地の如き 、その趣を異にし之と同一に論すべからさるものあり」
とし、被害地はそもそも田畑の少ない海岸沿いであるから、田畑の欠損ではなく、む しろ水産物を産する貴重なる人命を多く失い、今後の回復が困難だとしている。
c)災害調査:災害の原因についての調査でも、両災害では際立った違いがみられる。 まず、濃尾地震に際しては、帝国大学工科大学のお雇い外人教師として地震学を教授 していたミルンや当時帝国大学理科大学大学院生であった大森房吉も地震調査に派遣 された。帝国大学理科大学の地震学の教授であった関谷清景も兵庫県の明石で療養中 の身をおして調査に出かけ、調査地の岐阜において次のような投書を各誌に寄せている。
「我専門の地震研究の外に百般の現象身辺に蝟集し其目に影するものは皆考証の良種 子となり其耳に触 るるものは悉く研究の好資料ならさるものなし茲に小生の特に希 望して止まさるものは此際教育家諸君 の当地方に来り震災被害の実況を視察せられ んこと是なり」
として、被害を実見し、学問に活かす好機として推奨して止まなかった(11/3)。また
「今回の震災につき世の工業家に希望す」と題する寄書を出し、少数の学者が耐震建 築に就いて研究するより、今回の震災から実際の建築に当たる大工・石工・左官・屋 根屋が多年の経験から損害の模様を観察することが今後の被害の軽減につながると力 説している(11/5)。
 こうした震災から積極的に学ぼうとする姿勢は、関谷個人の発意というより、この時 期の社会的意志がそうした方向にあったといえる。政府行政官による震災調査の結果 が待たれ、新聞に転載され、解説が施された。中央気象台の職員の各地震動調査、帝 国大学工科大学造家学科学生50名の現地派遣など、1888年の磐梯山噴火の時以上に、 自然災害の原因究明に向かう科学の力に世の期待が集まったからであろう。濃尾地震 の場合の全国各誌からの新聞記事の収集も、各地の震動記録を新聞誌上から得ておこ うとした結果ではなかったかと思われる。各地に地震動が時間差を以て波及していっ た様子が次第に明らかになっていった。もちろん、当時既に各地の測候所からの震動 記録は収集可能であった。しかし、新聞によってより広くまた一段と情報を確実にす るためこうした記事がデータを補うものとして集められてのであろう。そうした広く 情報を集めようとする積極性が対象新聞の地域的拡がり、切抜き記事の多様さ、量の 豊富さからも類推できるのである。
 これに対して、明治三陸津波の場合、津波の原因について海底火山の爆発か、断層か 、潮流の激突かなど議論されたが、震災予防調査会も当時帝国大学理科大学地質学生 伊木常誠一人を派遣したに過ぎず、政府の調査が積極的になされたこともなかった。 1890年全国9ヶ所に設置された検潮儀のうち宮城県鮎川・北海道根室咲・神奈川県三 崎町の数値から津波による潮位変化が観測され、津波の原因が釜石の東方の太平洋上 にあることが確認されたとする陸軍陸地測量部の報告が掲載されているにすぎない。 政府が被災地に派遣した行政官は、大臣の視察に同行した内務省警保局長・県治局長 ・文部省参事官による小学校の被害状況調査などであり、死者数2万5000人以上とさ れた災害にしては担当行政官の数が圧倒的に少ない。
d) 義援金:明治20年代は1888年の磐梯山噴火に始まり、1891年の濃尾地震、1896年 の明治三陸地震と連続的に例を見ない大災害に襲われ、新聞はそれぞれの災害に紙面 を使って義援金募集広告を出し、義援者の名前、居住地などを掲載し、社会の公器に ふさわしい新聞事業としての新しい分野を確立した。磐梯山噴火では、義援金は新聞 誌上を通じて募集された金額が、全体の17%を占める6500円ほどであったが(15社聯 合募集)、濃尾地震では総額22万の約半分を占める11万余円となった(12社聯合募集 )。明治三陸津波では、総額は今の所未調査であるが、被害の25%を占めるとされた 宮城県で17万円余の義援金配分を受けているから、総額では68万円に上ると推定され る。この段階に至ると新聞社各社はそれぞれ独自に義援金を募集し、被災地の県庁に 送付している。この「新聞切抜」帳は、こうした問題とは異なる関心のもとに管理さ れたわけであるから、義援金関係の切抜きは少ない。しかし、濃尾地震と明治三陸津 波を比較すれば、当初は連合して義援金を募集したのに対して、各社が独自に義援金 募集を始めること、しかも災害が発生し、新聞に大々的に報じられると、翌日には直 ちに義援金募集の新聞広告が出されるようになる。義援金募集には、さまざまな趣向 が凝らされ、より多くの義援金を集める努力がなされるようになる。これはまた、社 会自体がそれに対応する力を備えてきたことの証明でもあろう。
 以上簡単に両災害の新聞切抜きから得られた情報を基に比較検討しつつ、それぞれの 災害の違いに言及した。新聞切抜きそのものが既に選択的になされており、以上の内 容はそれぞれの災害像そのものではない。しかし、新聞の切抜きからであっても、当 時の災害研究の先端にあって、相応の方向性を示してきた研究の中心地に残され、忘 れ去られたようとしている資料が語るものは少なくないといえるのではないだろうか。 阪神淡路大震災が起きて以降、これまでの災害研究の在り方に大きな反省が加えられ た。そのひとつに被災した社会自体の回復をどう企るべきかの研究がこれまで欠落し ていたという点がある。当研究所に蔵されてきた過去の災害記録のうちには、理学的 分析の基礎データであるとともに、その他の社会的視野からの分析にも重要な素材を 提供するものが豊富にあるように思われる。今回ここに紹介した新聞切り抜きのスク ラップブックなどはそうしたものの貴重な事例ではないかと思われる。
 本研究は、平成6年度後期一般共同研究「明治期における地震・火山の災害統計に 就いて」、平成7年度前期一般共同研究「濃尾地震の被害と復旧過程」における研究 成果の一部である。


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