歴史時代の噴火と主な被害

歴史時代の三宅島火山の噴火の記録が,14回残さ れています.この記録からどのような噴火や被害が あったかまとめました.

1085年(応徳2年)
1154年(久壽元年)
1469年(応仁3年)
1535年(天文4年)
1595年(文録4年)
以上には噴火が起こったことが記録に残されてい ますが,被害のようすは書かれていません.

●1643年3月31日(寛永20年2月12日〉から約3 週間当時の阿古集落は全戸が全焼しました.溶 岩流が集落より海へ約1km流れ下り今崎,メガネ 岩をつくりました,錆が浜からも海へ約1km,夕 景へも流下.阿古住民は冨賀神社へ一時避難し無 事でしたが,この噴火以降,角屋敷〜東山付近に 移り住んだと伝えられています.風下の坪田へは スコリアが降下し,畑が埋没しました,家屋は埋 まり,出入りができなくなり,坪田住民は神着へ 避難しました.

●1712年2月4日(正徳元年12月28日)から約2 週間桑木平から龍根の浜へ割れ目噴火,溶岩流 下,東山にあった阿古では泥水が涌き出し家屋の 半数が埋まり,畑作は埋没し,家畜は死亡しまし た.一週間にわたり避難したと記録されています.

●1763年8月17日(宝暦13年7月9日)一1769年 (明和6年)薄木で噴火開始.火口付近および 坪田にスコリアが5Ocm以上の厚さで降下しました. 伊ヶ谷,伊豆,神着でも降灰.新澪池が形成した のは,この噴火のときだとされています.(東山) 阿古は親零からの爆発角礫に覆われ,住民は一旦, 伊豆別当原,神着下根崎に避難した後,現在の阿 古へ移住した.噴火が6年にわたり継続したので, 幕府からの援助が必要でした.

●1811年1月27日(文化8年正月3日)から約1週 間雄山から東北東に向かい割れ目噴火が起こっ たらしい.噴火は夜半に始まり,早朝6時ころに はほぼ鎮まりましたが,その後激しい地震が約1 週間続きました.

●1835年11月10日(天保6年9月20日)から約 10日間西麓笠地観音付近の(伊ヶ谷と坪田を 結ぶ)坪田道まで溶岩が流れ下りました.

●1874年7月3日から7日北麓大穴付近から噴火が 始まり島下方面ヘスコリア・火山灰が厚く降り積 もりました.同時に北へ向かって流れ出した溶岩 は東郷集落を襲い45軒の人家を覆い海岸まで達し ました.行方不明者が1名あったとされています.

●1940年7月12日から8月5日まで7月12日北東 山腹赤場暁付近で割れ目噴火がはじまり,流れ出 した溶岩は谷に沿って赤場暁湾に達しました.ま た,降り積もったスコリアや火山弾によって,ひょ うたん山が作られました.この活動は13日にはほ ぼ終わりましたが,13日夜遅くからは山頂噴火が 始まり,7月24日から26日ごろ最も激しくなり, 絶え間なく爆発が続き,大音響が聞こえました. この活動により山頂火口にスコリア丘ができ,小 規模な溶岩も流れだしました.8月5日になってよ うやく活動はおさまりました.はじめに開いた火 口のほぼ真上に住んでいた島民から死者11名,負 傷者20名という大きな犠牲をだしました.このた め火山活動の監視を主な任務の一つとする三宅島 測候所が開設されました.

●1962年8月24日から26日8月24日午後10時20分 ころ,神着,坪田両村の境界付近で割れ目噴火が 始まりました.割れ目は山の上下へひろがり11時 ころ最も激しく火柱が立ち上りましたが,11時30 分すぎから徐々に山の上の火口からおさまってゆ きました.最も低い火口群は最後までマグマを噴 き上げて,三七山をつくりましたが,26日朝には 活動が終わりました.しかし,その後も激しい地 震活動が続き,一部島民は島外に避難しました.

●1983年10月3日から4日10月3日午後3時20分こ ろ南西麓で割れ目噴火が始まりました.そこから 西へ流れ下った溶岩流により,阿古集落340戸が 埋没,焼失しました.溶岩のため出入り不能となっ た家屋は190戸に及びました.溶岩の流路は1643 年とほとんど同じでした.新澪池,新鼻ではマグ マ水蒸気噴火が起こりました.坪田にはスコリア が20〜10cmの厚さで降り積もりました.

●9世紀の三宅島の噴火富士山や伊豆半島,伊豆諸 島では,9世紀に大きな噴火,地震が相次いで起 きました.800年(延暦19年)富士山噴火にはじまり, 838年(承和5年)神津島噴火,841年(承和8年)北伊豆 を中心とした地震,864年(貞観6年)富士山噴火; 878年(元慶2年)の相模を中心とした地震,886年(仁 和2年)新島火山の噴火や,大島火山のN3噴火が すでに知られていますが,三宅島も記録には残さ れていませんが,9世紀におおきな噴火をしたこ とが噴出物の調査からわかっています.三宅島火 山の噴出物を詳しく調べると神津島天上山起源の テフラ,新島向山起源のテフラの間に八丁平カル デラから溢れ出た溶岩流(雄山溶岩),その後,八 丁平カルデラ中心から噴出されたスコリア(雄山ス コリア)と,島の中心から東へ割れ目噴火が延びて ゆき,海岸近くで激しいマグマ水蒸気噴火をして, 三池マールを形成しました.『日本文徳天皇実録』 によれば856年9月10日(斉衡3年8月8日)に安房で降 灰があったとされており,三宅島の9世紀の噴火 がこれに相当する可能性もあります.