浅間火山の地質と形成史の概要


 浅間火山はフォッサマグナの東縁部の中央に位置し,基盤は新第三紀層の堆積岩・火山岩類からなると思われる.東北日本弧に沿う火山フロントと伊豆マリアナ弧に沿う火山フロントが鋭角に交わる会合点近くにあり,南南西〜北北東にのびる40kmx30kmの構造的低地帯の中央にある(Bouguer地域異常は−15mgal;田島他,1977).その南〜東縁には年代2.5〜4.2Maの火砕岩類(霧積層群,志賀溶結凝灰岩など),1Maの成層火山群(鼻曲火山など)が分布する.西方には高峰〜篭の登連峰からなる烏帽子火山群の山稜が東西に走り,浅間山(海抜2560m)はその東への延長部に相当する( 図1).
a.成長史  
 浅間火山は大別して3個の火山体からなり,それらの火口はやはり東西方向に配列している(Aramaki1963:荒牧,1968).

1)黒斑火山(現在の最高点は三ツ尾根山,海抜2455m,最盛時には2800m以上の高さ

があった)は富士山形の円錐形の成層火山で,中心部の下部は溶結した本質凝灰角礫岩と溶岩流の互層からなる(岩石は紫蘇輝石・普通輝石安山岩).主部は溶岩流と非団結の火砕物の互層,末期にはややケイ長質な安山岩を噴出し,その一部は軽石,火山灰として東方へ広く堆積した.これは北関東ローム(火山灰)層の一部となり,板鼻褐色軽石(BP)と呼ばれる.

 その後浸食により山頂火口が拡大され,末期に大規模な山体崩壊が起きて円錐形の山体の東部が破壊された.崩壊した物質は大規模な岩屑流(土石なだれ)となって高速で南および北麓に流下し,展開した.南東の塚原地域の流山の地形はこの堆積物からできている.

2〉 約2万年前から1万年前までの期間は,ケイ長質(SiO2=65〜70wt%)のマグマが活動する時期であった.黒斑火口より東へ約1kmの地点から粘性に富む紫蘇輝石・角閃石デイサイト質の厚い溶岩流が繰り返し流出し緩傾斜の火山体をつくったが,最盛期には山体の高度は海抜2000mに達した.これを仏岩火山と呼ぶ.溶岩流の周縁急冷部は黒曜岩となった.また同質のマグマがさらに3km東方の火口から噴出し,一部は白色の軽石となり東麓に降下し(白糸滝で観察できる),一部は比高200mの溶岩ドーム,小浅間山をつくった.

 溶岩流の噴出と平行して大量の火砕物が同じ火口から降下軽石・火山灰および軽石流の形で繰り返し噴出した.前者は北関東ロームの板鼻黄色軽石層(YP)と呼ばれ,岩宿無土器文化層とほぼ同層準である.軽石流は少なくとも数回大規模なものが噴出し,おもに北と南の裾野に広く展開した.堆積物は非溶結で,10〜30mの厚さで500km2以上の広さを覆つた・このため火口付近にはとくに頻著な火山体は構築されず,噴出後に陥没,小型のカルデラが生じたと推定される.

 このような火砕噴火活動とおそらく平行して,仏岩火山体の西部および北部が断層運動で陥没して失われた.西に向く断層崖に露出する厚い溶岩は仏岩と呼ばれる.



(3)前掛火山(海抜2560m)はおそらく8000年前から活動開始したが,仏岩火山の火口とほぼ同じ地点から輝石安山岩質のマグマ(SiO2=58〜62wt%)が噴出した.黒斑および仏岩火山体の破壊された地形の上にまたがって,比高1200mくらいの成層火山前掛山が形成された.これまで天仁元年,天明3年クラスの大噴火を数回繰り返して現在の大きさになったが,今後しばらくは同じ速度で成長を続ける可能性が高い.明治以来数十回の大爆発(ブルカノ式噴火)が記録されているが,最大数十万トンの火山岩塊や火山弾の投出が主で,火山体の成長にはあまり寄与しない量である( 図2,図3).




b.歴史時代の2大噴火


 天明3年(1783年)と天仁元年(1108年)に記録されている過去2回の前掛山の大噴火はそれぞれ200年と900年前に起こったが,両方とも同じような経過をたどった.噴火の初期は大量の火山灰,スコリア,軽石が空高く(成層圏にまで)吹き上げられ風下の広範囲に堆積した.偏西風により東方に流され降下したので,堆積物の等厚線は東へ伸長した楕円形の輪郭を示す.火道壁を構成する類質岩片,基盤岩からなる異質岩片も少量含まれる.噴火の強さは末期に近づくほど激しくなった.天明の噴火の場合は8月4日に中間型火砕流である吾妻火砕流が噴出し北麓に流下した.この火砕流はパン皮火山弾の構造をした多くのスコリア塊(最大径2m)を含み,堆積物の大部分は溶結している.記録によると大木の密生した森林を流下したが,溶岩樹型に似た,樹幹の形を残した垂直の空洞が多く発見される.翌5日午前10時頃大爆発とともに投出された巨大な岩魂が,岩なだれとなって北農を高速度で流下した.岩なだれは前日噴出の吾妻火砕流(0.1km3)よりはるかに噴出物の量は少ないにもかかわらず,径数十m以上の,高温の,しかし密度の大きい岩塊を大量に含んでいた.これらの岩塊が高速で斜面を突進することにより,地表の岩石,土砂が大量に掘りおこされ,これらが一団となって下流に流れ下り,鎌原村をはじめ多くの村落を破壊し,埋めつくした.さらに吾妻川から利根川にかけて洪水が起こり,死者の総計は約1200人に達した.噴火の最末期には溶岩流が流出した(天明では鬼押出溶岩流,0.17km3:天仁では舞台溶岩流など).天仁元年の噴火の総噴出量は1.2km3に達し,山頂火口は陥没により拡大されて1.1×0.9kmの大きさになった.天明の噴火後,この大火口の中に比高170mの釜山中央火口丘が成長し現在に至っている.

 釜山は1910年代,1930年代,1950年代に比較的頻繁にブルカノ式活動を行ったが,1960〜1970年代に入っては1973年の活動がおもなもので,その後現在に至るまで沈静の時期に入っているようである.しかし,この程度の長さの平穏期は過去にいくらもあり,前掛山全体の成長史からみれば活動が衰えてきたという兆候は認められない.釜山のすり鉢状の火口緑の直径は約450mだが,その内部に直径約300mの垂直な壁を持つビットが続く.その深さは過去100年間に300m以上も上下に変動した.1912〜1913年には火口は最も浅くなり溶岩が盛り上がって火口の緑の高さまで達した.1994年現在火口底の探さは約200mである.活動期には火口底に直径数十ないし150mの同心円状のしわを持つ高温溶岩の塊が出現し,その中心からガスが激しく噴出するのが観察される.

 浅間山のブルカノ式噴火活動は大森房吉以来,松沢,水上らにより地球物理学的方法で詳しく研究され,この分野での火山物理学の世界的なリーダーとなってきた

現在では東京大学および気象庁の観測網がはりめぐらされ,地震,地殻変動,熱異常,重力,電磁気などについての観測が継続され,火山活動に関する基礎研究が行われている.〔荒牧 重雄〕



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