噴火 その11

大正2年11月8日(1913.11.8)
大正二年五月十九日午前四時二十分頃、西諸県郡加久藤村で地震を感じ、引き続いて九月一日までに加久藤、真幸で百七十五回の地震が起きた。その後十月十七日から十九日までの三日間に三回の強震が起こったが、十一月八日午後十一時頃にいたって、ついに霧島山の爆発となった。焼石を噴出した。狭野(高原村)、西麓(高原村)、小林では遠雷のような音響を聞き、少し降灰があった。野尻、飯野では音響はあったが降灰はなかった。加久藤では音響とともに、噴火口上に火柱が見られた。少し降灰した。真幸は異常なかった。
加久藤および真幸では、翌九日午前三時四十分頃に強震一回、十日午前一時三十分頃に微弱震一回を感じた。[宮崎測候所報告による]

 

同  2年12月9日(1913.12.9)
午前四時十五分頃に爆発し、降灰は宮崎にまで及んだが、強い音を聞き震動があったのは都城以西の山麓に近い区域に限られ、宮崎では降灰も注意しない者は分からず、熟睡していた者は音響を聞かなかった。高原では大砲のような音響があり、激烈な震動が起きた。山上は火の塊に充たされ、三十分後に村の南西部落に微量の降灰があった。狭野では大きな爆発音を聞いたが、降灰はなかった。噴出した大小の火石は高千穂峰およびその山腹に撒き散らされ、星のような光を放っていた。西岳村字中ノ山付近には、周囲四・五寸の火石が降った。
本年二回の噴火は、去る明治三十六年十一月二十五日の爆発に比べて、著しく軽微だった。[宮崎測候所報告による]

 

同 3年1月8日(1914.1.8)
午前二時二十分頃、爆発した。宮崎では前回に比べて、爆発音が比較的強く、やや長くて約二十秒に達した。戸障子が震動したが、降灰はなかった。山麓の北諸県郡西岳村字牛臑方面では、栗の実大の噴石を降らし、御池から西方向の噴火口にやや近い小字赤道の一部落は、屋根の上に落下する音が轟々としたが荒襲方面には砂・灰ともに降らなかった。空振が波及しなかったのは日向国極北部の三田井、延岡方面で、爆発音は南方向全部から児湯郡全部に達し、田野、都城、鹿児島県姶良郡東襲山村には降灰があった。[同上]

 

曽於郡(そおぐん)、襲山(そのやま)、性空(しょうくう)、笈掛岳(おいかけだけ)、都濃(つの)、益貫(ますのき)、火常峯(ひとこみね)、脊門丘(せとお)、花堂(はなんどう)、松八重川(まつばえがわ)、東霧島(つまきりしま)、高原(たかはる)、高城(たかじょう)、穆佐(むかさ)、諸県郡(もろかたぐん)、蒲牟田(かまむた)、祓川(はらいかわ)、飫肥(おび)、
明治村(あけはるむら)、吉野生村(よしのぶむら)、牛臑(うしのすね)、加久藤(かくとう)、馬渡(まわたり)、真幸(まさき)、荒襲(あらそ)、児湯郡(こゆぐん)、姶良郡(あいらぐん)

南極にもあります

日本の昭和基地もそうですが,長く閉ざされた冬を越す南極の基地にはバーがあります.マクマード基地は南極最大の基地だけあって,3店舗もバーがあります.古くからあるバーはコルゲートの建物を改装したもので,味わいがあってなかなか良い雰囲気です.

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立ち入り禁止

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南極には南極条約や批准各国の関連法で定められた保護地域があり,動植物や砂礫の採取はもちろん立ち入りも厳しく制限されています.これを遵守することは,人間の影響を可能な限り排除してありのままの自然を守るために,南極を訪れる全ての人々に課せられた義務です.

食堂その1

午前中に1902年にスコットが建てた小屋の内部を見学する機会がありました.僅かな補修はされているものの,100年間も南極の暴風雪に曝された木造建築とは思えないほどしっかりしていました.

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ここは,1901-1904年のDiscovery Expeditionの際,1902年にスコットが建てた小屋の食堂です.以前は自由に見学出来たらしいのですが,南極遺産保護のため10年ほど前に鍵が掛けられました.今回,見学する機会が設けられたので同行しました.内部はそのままの状態で保存されており,食糧兼燃料として捕獲したアザラシが積まれたままになっていた.1902年以後も何度となく利用されたせいか,煤と油脂の臭いが染みついていました.

食堂その2

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ここは現在のマクマード基地の食堂です.明るく開放感があり,200~300人が一度に食事できるとても広い部屋です.ここに限らず室内にいると,南極に来ていることを忘れてしまいそうになるくらい近代的で文化的な国内と変わらない生活が繰り広げられています.