博士論文審査の主査をしていただいた菊地先生

九州大学大学院理学研究院・亀 伸樹
、月刊地球、菊地正幸教授 -想い出と業績- 、No. 45、157-158、2004



 菊地先生が地震研究所に転任されたのは1996年7月、私が地震研で博士課程二回生の夏を迎える頃でした。先生は既に遠地地震実体波インバージョン解析の第一人者であり、地震発生後の震源過程速報の公開で有名でした。当時(現在もですが)大学院生の多くが、菊地先生の「震源インバージョン」研究の華やかさに憧れていたことを覚えています。一方、私の研究テーマは、震源の分野という意味では先生と同じではありましたが、地震波形解析とは全く縁のない弾性動力学の理論的な(地味な)研究でした。その秋、茨城大学で行った私の学会発表タイトルは「新しい境界積分微分方程式法で解く二次元亀裂の動的破壊過程」というもので、学会の様子を伝える週刊新潮38号の記事では「〜といった素人が聞いてもチンプンカンプンなものまで」と揶揄されました。このような研究背景の違いから、菊地先生に将来自分自身の博士論文の主査をしていただくとは思ってもいませんでした。 。

 翌年、博士課程三回生になり私は博士論文の「地震破壊停止機構の理論的研究」をまとめる過程で、菊地先生の「定速度で伝播する二次元割れ目の変位速度と応力場」という弾性動力学理論の論文に思いもかけず出会いました。先生の研究が様々な分野にわたることは周知のことですが、まだ学生だった自分は不勉強にもそのことを知りませんでした。そんなんでしたので「こんなこともしてはったんやぁ。」と感動して読んだことを憶えています。論文は学会誌「地震」に掲載された1976年のもので、そのころ菊地先生は博士の学位を取得されたばかりの頃と知り、自分の状況に照らし合わせて一方的に親近感を抱きました。その論文の「§6.おわりに」に、「何某の解析解は、応力場についての物理的考慮を一切無視し、しかも割れ目上で『変位』を与えて、そのまわりの『変位』だけを見ている結果にすぎない。」と「物理的考慮」を熱く語っている一文がありました。私は自身の研究に鑑みて「我が意を得たり。」と思うと同時に、菊地先生がその後に開拓された「震源インバージョン」研究分野との間に違和感も感じました。

 1997年当時、地震学において普遍化した震源インバージョン技法は、多くの研究者に無批判に利用され「物理的考慮」に至らない「変位」だけの解析結果が大量に発表されている、そんなふうに私は感じていたのです。猫も杓子も震源インバージョンしている、と私は思いました。そのような世紀末的雰囲気の下、地震研の大学院生の中には「地震学はもうおわっとうよ。」といって地震学から去る人も見受けられました。若気の至りで、私は菊地先生も地震波形解析結果をただ発表しつづけているだけだと思っていました。それが浅はかな考えであったことは、新世紀の菊地先生の研究で思い知らされました。先生は、昔の地震計で記録された大地震の記録(煤書きのものまで!)を精力的に分析し、海溝型大地震の際に大きくすべるアスペリティー領域の分布を求め、それが繰り返し大地震を起こしていることを見つけました。先生の頭の中には、自然現象に対する深い洞察があり、地震アスペリティーの物理過程のことを常に意識しながら解析していたのだと、ようやく気づきました。私が九州大学に赴任した後にお会いした時、「九州は日向灘の沈み込みが興味深いんだよ。」とにこやかに話され、先生の頭が「物理的考慮」で満ちているのを感じました。

 さて、1998年2月の博士論文の審査会では菊地先生に主査を引き受けていただきました。論文執筆の最中、適時、的確で丁寧なコメントをいただき論文の改善を助けていただきました。また、その間、常に笑顔で激励していただいたことが忘れられません。「僕も昔、こういう研究をしていたことがあるんだよ。」と懐かしげに話して下さいました。菊地先生の司会の下、私は五人の審査員の前で発表を終えました。本来の手順としては、発表者は退室し、審査員全員で合否を協議し、その後で各審査員が博士申請書に承認の印を押すことになっています。しかし、菊地先生は、発表後私の居る前で「さあ皆さん、印鑑を出してこの書類についてください。」と言ってしまいました。他の審査員から「まだ審査してないよ。」と待ったをかけられ、会場が笑い声に包まれたことを思い出します。

 私が学位取得後、米国カリフォルニア工科大学の金森先生を訪問した際、「菊地君(当時31〜33歳)は私の所に留学した時、『いままで理論的な研究をしてきたから、今度は地震波形解析をやってみたい。』と震源インバージョンを始めたんだ。」という逸話を聞きました。自分の年齢(当時30歳)に鑑みて、新しい領域に踏み込んでいった菊地先生のすごさを感じました。さらにその後、リアルタイム地震学を開拓されていかれたことは私が書くまでもないでしょう。そんな先生と研究のお話を出来なくなってしまい残念でなりません。菊地先生のご冥福を心よりお祈りいたします。


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