中田節也のプロファイール

現在の所属:

東京大学教授,地震研究所附属火山噴火予知研究推進センター

大学院担当:

理学系研究科地球惑星科学専攻「火山科学I」(鍵山助教授と分担)
理学系研究科地球惑星科学専攻「火山科学II」(藤井教授、小屋口助教授,安田助教授と分担)
地震研究所「火山科学セミナー」を分担

名 前(なかだ せつや)

特に九州の人は良く「なかた」と言いますが,「田」は濁ります.しばしば,論文の謝辞でnakataと書かれますが,nakadaとは別人です.

産 地

 富山県の田舎,城端(じょうはな)町で,農家の長男として1952年12月に誕生しました.城端はもともとは五箇山の入り口で雪深い所ですが,最近はほとんど積雪がありません. 小学生の体育の時間は学校の裏山でスキーをしていました.
 農家を継がない一人息子で,親戚からは親不孝と言われていました.でも農業に明るい未来は見いだせないと,早々と家を継がない宣言をしました.

教 育

 富山県の福野高校を卒業後,金沢大学理学部に入り,そのまま大学院修士課程へ進みました.金沢での6年間の学生生活の後,九州大学の大学院博士課程に入りました.が,2年後の1979年に就職のため中退しました.
 その頃の金沢大学は金沢城の中にありました(今はど田舎に移転).当時所属した地殻化学(岩石)講座には,教官に山崎正男(故人),坂野昇平,佐藤博明先生がいらっしゃいました.先輩には東野外志男,丸山茂徳,横山一巳,須藤 茂,板谷徹丸,中島 隆さん達が,同級生には大槻正行,合地信夫,古儀君男さんが,後輩には榎並正樹,石塚英男,椚座圭太郎,石渡 明,和田恵治さん達がいました.
 九大の助手の就職口が,博士課程2年の時にありました.最初は同級生の妹尾 護さんに話がありました.彼はほかの目的と固い意志があったのでそれをすぐに断りました.そのため,助手の口が僕の所に転がってきました.稼ぎたかった僕はさっさとこれに飛びつきました.妹尾さんはじっくり研究を極め,その後,地元の大学に就職を探しました.妹尾さんが僕の恩人で,毎年岡山のおいしい桃を贈ってくれ,これを食べるのが我が家の夏の楽しみでした(*_*;;).

稼 ぎ

 九州大学理学部の助手を1979年〜1995年までの16年間(!)勤めました.福岡市には何と18年間もいたことになります.高校までの富山の田舎と同じ長さだけ暮らしたことになります.1991年からの普賢岳の噴火では長崎県島原市にある理学部附属の島原地震火山観測所(現在は地震火山観測研究センター)にしょっちゅう通いました(僕は観測所の助手ではなく本学の助手でした).1998年3月にご退官された観測所の太田先一也生には「ともに普賢岳噴火を闘った戦友」のひとりに加えてさせていただいています(^^; ).太田先生は助手の僕にも存分に自由な研究と発言の場を提供して下さいました.
 1995年から東大地震研の助教授になりました.普賢岳の活動ではやや活躍が目立ったために,運良く地震研に引き抜いてもらったわけです.目立ったのは研究というよりはテレビ画像の上だけではなかったかとやや自戒的に思います.実は,このポストは,火山観測所など火山噴火予知に直接関係する地質屋の公式ポストとして,日本で初めて1994年に地震研に設置されたものでした.それにしても,地震研は目立つ人を全国から引き抜き,それでいて全然パッとしない(?)ことで,「読売巨人軍のようだ」と言われているようです.地震研に来た時,東海大学におられるOB先生からは「地震研はブラックホールだからね」と注意されました.「地震研のおいしい水」を飲みだして5年目には運良く(?)教授になりました.そろそろ虫下しを飲んで発奮しなければと思います.
 2002年7月,世界一規模が大きくかつ中身の濃い火山博物館のひとつ「雲仙岳災害記念館」が島原市にオープンしました.オープン前に訪れた外国の火山研究者や報道機関も絶賛した程のできばえです.太田先生の推薦で僕はこの展示内容の責任監修をさせていただきました.直しても直しても細かい間違いや不具合が出てきて大変でした.1991年6月3日の火砕流でなくなった毎日新聞社の石津勉カメラマン(最初の溶岩ドームの写真を撮った方)の弟さん(勝さん)と一緒にグラフィックの仕事ができたことが大変いい思い出となりました.彼のこの記念館の制作に関する情熱は半端なものではありませんでした.彼に逆に激励されながら仕上げました.こちらの仕事の遅れもあって納期には徹夜の連続であったようです.博物館内のグラフィックの全てが彼の仕事です.噴火で被災された方々の鎮魂のいい記念館になってくれたらと思います.

資 格

 学位(理学博士)は1982年に九州大学からもらいました.論文名は「Petrology of the Osuzuyama acid rocks」でした.83年に「Journal of Petrology」に印刷になりました. 卒論から博士論文まで同じ場所(宮崎県尾鈴山)の研究をやり続けました(何とも執念です). 卒論当時,宮崎県都農町の民宿の宿泊費は2食弁当付きで1800円でした.レストランでウエイターをしてお金を貯めて宮崎に行きました.大阪からはまだ新幹線がなく,宮崎行きの夜行急行か日向行の夜行フェリーをよく使いました.宮崎から帰る船中では,鹿児島から大阪に出稼ぎに行くおじさんと語り明かしたこともありました.修論の時に世話になった,日向営林署の寮の五右衛門風呂が懐かしく思い出されます.寮のおばさん(斎賀さん)が毎晩焼酎を飲ませてくれました.フィールドで夕方になって,薪で風呂を沸かすにおいがすると宮崎の山中を思いだします.

海外での遊学歴

(1)1982年〜1983年にボリヴィア国サンアンドレス大学鉱床学研究所へJICA派遣専門家として赴任しました.6000m級のアンデス火山の調査を死ぬ思いで行い,その岩石学の研究を1991年発表の論文(American Mineralogist)にまとめました. この頃,スペイン語で会話ができたはず.が,今はすっかり忘れてしまいました.ボリヴィアに住み始めて直ぐ,羊の脳みそをレストランで食べ,サルモネラ菌に当たって入院しました.ボリヴィアの首都ラパス(標高4000m)に滞在中に長女が生まれました(日本大使になったHofmanさんの奥さん,井上ちかこ先生にとりあげてもらいました..未明に先生と女房をジープに乗せて病院へ飛び込みました).
(2)1990年〜1991年に文部省の在外研究員として合衆国地質調査所(USGS)メンロパークで研究しました.クレーターレイク火山の研究を行っているCharlie Bacon一家に大変世話になりました.この間に行ったクレータレイク火山の古い山体の岩石学の研究を1994年発表の論文(Journal of Petrology)にまとめました. アメリカでの滞在中に普賢岳が噴火を始めました(*_*).ちょうど元九大院生の田中雅人君と雲仙火山の岩石学についての論文を「火山」に投稿している時でした.大きなチャンスを見逃すかと一瞬あせりましたが,幸いなことに(?),帰国後に普賢岳は本格的な噴火になりました.

外国で命拾いの話

1993年1月コロンビアのガレラス火山で防災十年火山のワークショップがありました.主催者のスタンリー・ウイリアムズに招待されて雲仙の火砕流の話をしました.この時,会議の中日に火山の巡検(視察旅行)があり,その最中に「突然」爆発(マグマ水蒸気噴火)が起こりました.ほとんどそれらしい爆発の前兆はありませんでした.火口内にいた火山ガス屋さん地球物理屋さんら6名は爆発で吹き飛ばされたり,噴石に当たって即死でした.国際的に著名な重力や火山ガスの研究者が亡くなりました.リーダーのスタンリー・ウイリアムズも大変な重傷を負い,すぐに米軍のヘリコプターで本国へ輸送され九死に一生を得ました.
 爆発が起こったとき,僕は北大の宇井さんと一緒に山の外斜面にいて無事でした.実は,前夜まで僕は火口に入るグループにエントリーしていました.火口に入るには山頂(標高4200メートル!)にある落差200メートルの急崖をザイルで降りなければなりません.新しい新鮮な溶岩をどうしても入手したかったので火口に下りたいと思ったのでした.が,よく考えてみれば,火口の中で熱変質した岩石を採取するよりは,噴石として火口から外に飛び出した岩石の方が試料としては新鮮で良いのです.そこで,体調と相談しながら楽な方を選択し外回りグループに急遽エントリーし直したのでした.このひよったことが幸いだった訳です.広大の佐野さん(現在は東大海洋研)も招待されており,彼はガス屋さんなので火口に下りるグループになっていました.しかし,幸いなことに(?)ズック靴という軽装であったためスタンリーから崖を下りる直前に同行を拒否されたのでした.
 この噴火災害が避けられなかったのかどうかについて2冊の本が同時に出版されました.スタンリーが書いた"Surviving Galeras" by Stanley Williams and Fen Montaigne, Houghton Mifflin Company (2001).それと女性ジャーナリストのビッキーが書いた "No apparent danger. The true story of volcanic disaster at Galeras and Nevado del Ruiz" by Victoria Bruce, HarperCollinsPublsers (2001)です.
 先頃,カリブ海のマルチニーク島で開かれた国際火山会議でこの時ワーキングループに参加していた何人かの人達と約10年ぶりに再会しました.そのうちの一人,エクアドルのピート・ホールはラム酒で酔った勢いで僕の肩を組みながら言いました.「あの時ガレラスにいた火山屋は特別なんだ!戦友なんだ!」.あれ..どっかで聞いた言葉だぞ?

(モットー) 人生は運.いかに運を逃がさないかで勝負が決まる.


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