諏訪之瀬島のむかし
諏訪之瀬島火山は現在も日本でもっとも活発な活火山の一つであるが、その活動とここにすむ人々の苦難の歴史は未だよくわかっていない・・・。
「拾島状況録」や「七島問答」などの明治中期の記録により、このころの島の様子を探ってみた。
私は諏訪之瀬島の文化噴火(1813A.
D.)の研究をしてきました。そこでよく、古文書はないの?と聞かれますが、噴火の状況を詳しくつたえるようなものはありません。
文化噴火では噴火開始直後に島民は離島し、その後約70年間、この島は無人島になりました。また、諏訪之瀬島は現在でも定期船の欠航が頻発する南海の孤島です。このような理由から、古記録が少ないのでしょう。
諏訪之瀬島は明治に入ってからも、鹿児島で薩摩硫黄島の噴火と間違えられたりするほど、”無視されていた!!!”活火山なのです。 今日に至ってもすべての噴火が記録されているわけではないようです。火山を研究している人でも、すわのせじまって?という人がいるくらいですから・・・。
そんなわけで、PRついでに「拾島状況録」にみられる文化噴火の記載内容といくつかの絵図をご紹介いたします。絵図は白野夏雲という人が明治17年4月にトカラ列島を旅したときの紀行文「七島問答」およびその時に描いた「十島図譜」から転載しました。この年から翌年にかけて溶岩流を流出する噴火をしたのですが、この絵にはまだそれが描かれていません。この噴火の前を知る貴重な資料です。
笹森儀助の著した「拾島状況録」は、当時を知る貴重な資料です。ここには文化噴火に関する事柄がいくつか記されています。とはいっても、それらの記載は噴火の時に避難した老婆が笹森に語った伝聞であり、また、笹森自身の想像もかなり含ませているようです。それでも、噴火開始から数日後に船にたまった灰を取り除いて避難したとか、村の長が山の神を鎮めに一人山頂に向かったとかいった噴火当時の状況を知ることができる情報がところどころに見受けられます。
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図1 東から見た作地カルデラ(文化噴火の最後に御岳が崩壊してできた).現在カルデラ底は明治噴火によって噴出した溶岩流に覆われています.しかしこの絵図にはまだ新しい溶岩が描かれていません. |
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図2 諏訪之瀬島の地名.現在このような地名は国土地理院の地形図には書かれていません.また,多くの住民も呼び名は知っていても実際どこのことを指しているのかは曖昧にしかわかっていないようです.したがって,この絵地図は調査をするときの位置確認に役立っています. |
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図3 西沖から見た諏訪之瀬島.現在とほぼ同じ位置から噴煙がでています.噴煙の形から考えるとブルカノ式噴火でしょうか? |
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図4 諏訪之瀬島西岸折倉崎(現在の須崎のことだと考えられる). |
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図5 「諏訪之瀬島裏面火口之眞景」ほぼ図1と同じ絵図だと考えられます(模写?).それぞれのピークには,右から富立峯,根山,脇山,御岳,南岳,三ノ山と名付けられている. |
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図6 「西崎舟中岳神ヲ拝ス」 現在も残っていますが,御岳山頂にあるアグルーチネート(溶岩のしぶきが積み重なってできた堆積物)の形を山神に見立てているようです. |
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図7 「脇山下寄リ天瓊鉾ヲ拝ス」図6のアグルーチネートを方向を変えてみたためでしょう. |
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図8 荒崎 荒崎は諏訪之瀬島の南東岸にある岬です.名の通り険しい岩肌の露出する海岸です. |
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図9 諏訪之瀬島見取り図. 「四月二十日諏訪瀬島ヲ一周シ図面ヲ得タリ」 |
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図10 明治十七年四月二十一日午前四時 |