3.4.4 史料分析等に基づく古地震・歴史地震の評価

3.4.4 史料分析等に基づく古地震・歴史地震の評価

 1855年安政江戸地震(安政二年十月二日,1855年11月2日)による佐倉城・城下町の詳細な被害を佐倉藩の「年寄部屋日記」の記述に基づいて整理し,その被害位置を特定した.そして,被害に基づく詳細な震度分布の推定を行った結果,これまで気象庁の旧震度階で一律震度Vとされてきたこの地域の震度は,震度4〜6弱の範囲で変化することが分かった [図3.4.4].今後,この変化が地盤の影響であるのか,建物の耐震性の影響であるのかをさらに検討する必要がある.

 関東の広範囲に強い揺れをもたらした安政三年十月七日(1586年11月4日)の地震は,江戸・神奈川における小被害と旧『所沢市史』の年表にある久米川村(現東村山市久米川)における19軒の潰家という大被害が知られている.したがって,この地震は,これまで,久米川村直近の立川断層に関係するM6クラスの浅い地震だと考えられてきた.しかしながら,旧『所沢市史』における久米川の被害記録の原本は不明であり,久米川村の隣村である小川村の小川家「御用留」,廻り田新田の斎藤家「御用留」には,安政三年八月二十五日(1855年9月23日)の台風による潰家数などの被害記述は存在するが,地震被害に関する記述はない.さらに,久米川村から約5km離れた蔵敷村(現東大和市蔵敷)における内野家「里正日誌」,約10km離れた中藤村(現武蔵村山市中藤)で記された指田家「指田日記」においても同様に,潰家数など9月23日の台風被害の記述あるが,11月4日の地震による被害記述はないことも分かった.今後,現所沢市・川越市における史料調査も必要であるが,久米川村の潰家被害は,地震の被害ではなく台風の被害である可能性が非常に高いと考えられる.したがって,この地震は,立川断層に関係する浅い地震ではなく,江戸・神奈川の小被害から,この地域で震度が大きくなる安政江戸地震の最大クラスの余震である可能性がある.

 安政五年十二月八日(1859年1月11日)の地震も関東の広範囲にわたって強い揺れが記録されている.この地震の被害については,『昭徳院殿御実紀(続徳川実紀)』の安政六年二月二日(1596年3月6日)条にある 「先達而領分地震」による岩槻城の被害の修理費として幕府から千両の借金が認められたという記述の「先達而領分地震」を,安政五年十二月八日の地震だと解釈することで,岩槻で大被害があったとされてきた.したがって,この地震は“岩槻の地震”と呼ばれ,震源は岩槻付近だと考えられてきた.しかしながら,埼玉県立文書館で史料調査を行ったところ,既刊地震史料集に掲載されていない史料「諸案文写」(河内家文書)において,この千両の借金依頼は,安政二年九月以降十一月五日(12月1日)までに書かれていることが分かった.したがって,借金依頼の原因となった岩槻城の被害は,安政江戸地震による被害であり,安政五年十二月八日の地震は岩槻付近を震源とする被害地震ではないと結論された.なお,岩槻藩の黒谷村における日記史料「万代記録帳」には,安政五年十二月八日の地震による黒谷村をはじめ岩槻城やその周辺の岩槻宿の被害が記されていないので,上記の結論を支持する.