第4代所長・妹澤(せざわ)克惟(かつただ)


 石本巳四雄の注目される功績は、シリカ傾斜計や石本式加速度地震計のような観測機器の開発に最もよく現れていますが、同じ東京帝国大学工学部船舶工学科の出身でありながら、妹澤の研究の方向はもっぱら「振動に関する数理的研究」に向かっていました。
 大学卒業後、翌年には助教授に任ぜられ、末広の元で振動論研究に専念します。翌1923年には航空研究所所員を兼務して、飛行機の機体構造についての数理的研究や船舶における振動の減衰等の研究も行い、1926年に末広に招ぜられて地震研究所専任の所員となり、1942年には第4代所長になります。





 その後1年間の英、独、米留学で地球力学研究の下地をつくりますが、その前年1931年にはすでに、「地震波の生成伝播(でんぱ)其他に関する研究」で、学士院恩賜(おんし)賞を受賞しています。その研究が学界においていかに高く評価されていたかを示す、何よりの証(あかし)でしょう。
彼は多くの論文を発表していますが代表的なものとしては、「地震波の球座標・円筒座標による表示」「水平層状地殻中のレイリー波の数理的研究」等があげられるでしょうか。結果は表面波の一種であるM2波の存在を理論的に証明し、妹沢波と呼ばれるようになります。
また地震学以外でも、本来の工学分野での研究も行い、造船協会論文賞も受けています。
 1932年に出版された彼の主著『振動学』が40年後に復刻版として蘇(よみがえ)っていることを見ても、学問的進歩の早い理工系分野における、彼の研究の先進性を示すものでしょう。





 ただ第二次世界大戦下の時勢は地震研究所にも大きく影響し、若い助手の多くは軍隊に応召(おうしょう)するようになっていました。それを逃れるためもあってか、研究所には爆震爆風・地震探査などの部門が新設され、所長以下所員全員は陸軍の臨時嘱託として、爆弾を研究する第3陸軍航空研究所付となります。
妹澤はそのような所長としての重なる激務の過労・心労の中、栄養失調による肺結核の悪化により、終戦前年に48歳で人生を終えました。