展示概要

 過去の噴火活動は、様々な史料に記述が残されており、被害の状況や救済の様子を伝えるものもあります。今回は、図書室で所蔵している史料のうち、江戸時代から明治時代に起こった噴火の様子が描かれた絵図を中心に展示します。

 東京大学地震研究所図書室では、地震、火山、津波など地震研究所に関連の深い災害をテーマとした古書類を数多く所蔵しています。図書室では、2013年3月に「東京大学地震研究所図書室特別資料データベース」を公開し、古書類をここに集めています。データベースでは資料検索のほか、一部の資料については画像も公開しています。



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天明三年(1783)の浅間山噴火

 天明の浅間山噴火は、四月九日(太陽暦では1783年5月9日)に始まり、七月七日(同8月4日)の夜から翌八日の朝にかけての約15時間に噴火は最盛期を迎えました。七月八日(同5日)の午前中には爆発が起きて、その直後に鎌原(かんばら)火砕流(岩屑(がんせつ)なだれ)と称される大きな流れが発生しました。この鎌原火砕流は北麓へ流れ下って鎌原村を埋没させ、吾妻川に流入して天明泥流と呼ばれる火山泥流になりました。この泥流は利根川に合流して関東平野を流れ下り、銚子と江戸にまで達しています。
 天明の浅間山噴火による災害は、
(1)軽石や火山灰などによる家屋の倒壊や焼失
(2)鎌原火砕流と天明泥流による河川沿岸での埋没・流失
の2つに大きく分けられます。
 鎌原火砕流と天明泥流による被害は浅間山北麓から利根川沿いの関東平野におよび、被害数は流死者1,624人、被災村55ヶ村、流失家屋約1,151戸、田畑泥入被害5,055石と見積もられています。


寛政四年(1792)の雲仙岳噴火

 
 寛政の雲仙岳噴火は噴火そのものによる被害は軽微でしたが、隣接する眉山(まゆやま)が地震によって山体崩壊し、それによって有明海で発生した大津波による被害の方が甚大でした。
 寛政四年正月十八日(太陽暦では1792年2月10日)に雲仙岳が噴煙を上げて噴火が始まり、四月一日(同5月21日)の夕刻に激しい地震が2回発生し、島原城下の背後に位置する前山(眉山)が大崩壊します。島原の城下町の大半は、前山の山体崩壊による岩屑流(がんせつりゅう)に押し流されて埋没し、有明海に流れ込んだ岩屑流によって大津波が発生しました。この大津波は、島原半島の沿岸だけでなく、有明海の対岸にあたる肥後国(現在の熊本県)や天草諸島の沿岸にも襲来しました。全体では流失・倒壊家屋約6,300棟、死者約15,100人におよび、日本史上最大級の大災害とされています。
 島原で大変事が起こり、その影響で肥後でも被害が生じて、大いに迷惑を受けたことから、「島原大変、肥後迷惑」と呼ばれて現代に言い伝えられています。

明治21年(1888)の磐梯山噴火

 
 明治の磐梯山噴火は、明治21年7月15日に大規模な水蒸気爆発とともに磐梯山が大崩壊し、山麓に大きな災害をもたらしました。7時45分頃に噴火が始まり、大きな爆発が15~20回ほど連続して起こり、ついには磐梯山の北側の山体が大崩壊しました。また、北側斜面を流れ下った大規模な岩屑(がんせつ)なだれによって、北麓にあった5ヶ村11集落が埋没し、477人の死者が出ました。
 この岩屑なだれで流れ下った大量の土砂によって、北麓の長瀬川が堰き止められ、檜原湖(ひばらこ)や五色沼(ごしきぬま)といった湖沼が形成されました。

 

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※このWebサイトは2015年の東京大学地震研究所一般公開で展示した“地震研究所図書室所蔵資料展示 火山絵図展”を基に作成しました。

【参考文献】
・内閣府中央防災会議 災害教訓の継承に関する専門調査会編『1888磐梯山噴火報告書』(2005年)
・内閣府中央防災会議災害教訓の継承に関する専門調査会編『1783天明浅間山噴火報告書』(2006年)
・北原糸子・他編『日本歴史災害事典』(吉川弘文館,2012年)

資料はすべて東京大学地震研究所所蔵

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