火山絵図紹介
火山絵図紹介(画像をクリックで拡大されます)
-
太平秘録抜書 浅間山燒及普賢山崩
(たいへいひろくぬきがき あさまやまやけおよびふげんやまくずれ)
肥前国(現、長崎県・佐賀県)の島原半島で寛政四年(1792)に発生した雲仙岳(普賢岳)の噴火について描かれた絵図。『太平秘録』から抜き書きされた冊子の絵図の左下には、雲仙岳の一部を成す普賢岳の噴火に伴う地震によって前山(眉山(まゆやま))が大崩壊し、発生した岩屑流(がんせつりゅう)が有明海になだれ込んだ様子が茶色で示されている。
前山の大崩壊によって有明海では大津波が発生し、岩屑流と津波によって島原の城下町は約3分の2が壊滅した。そのため、その翌日の四月二日(太陽暦では5月22日)に島原藩主の松平忠恕(ただひろ)は、家老2名を島原城に残して沿岸の守山村へ避難している。絵図の右端中央付近には守山村の記載がある。
その後、島原藩による積極的な救済活動と復旧作業によって、6月頃には城下町へ人々が戻り始め、本格的な復旧工事が開始された。前山の岩屑流によって有明海が埋め立てられてできた土地には新たな市街地が建設された。
※参考文献:北原糸子・他編『日本歴史災害事典』(吉川弘文館,2012年)
東京大学地震研究所図書室特別資料データベースレコードID:L000496 -
浅間焼見聞實記
(あさまやけけんぶんじっき)
天明三年(1783)の浅間山噴火の状況とその後の冷害による飢饉の実態などをまとめた書。大正元年(1912)に東京帝国大学教授大森房吉(ふさきち)が浅間山噴火の記録の所在調査で群馬県を訪れた際に発見された。
絵図には噴煙を上げて鎌原(かんばら)火砕流(岩屑(がんせつ)なだれ)が流れ下る浅間山を右上に、天明泥流によって押し流された吾妻川沿いの村々や街道が左中央の黒色の泥流中に描かれている。
吾妻川流域全体での泥流被害については、この見開き2頁に4頁を加え計6頁にわたって絵図で示されている。
※参考文献:内閣府中央防災会議 災害教訓の継承に関する専門調査会編『1783天明浅間山噴火報告書』(2006年)
萩原進編『浅間山天明噴火史料集成3:記録編(2)』(群馬県文化事業振興会,1989年)
東京大学地震研究所図書室特別資料データベースレコードID:L000127 -
天明三年癸卯六月 沙降記 [蕗原拾続巻之五十二]
(てんめいさんねんみずのとうのろくがつ しゃこうき [ふきはらしゅうぞくまきのごじゅうに])
江戸時代中期の信濃の郷土史料の叢書『蕗原拾葉』(ふきはらしゅうよう)続編に収められた『沙降記』(しゃこうき)の附図。『沙降記』は後に伊勢崎藩(現、群馬県)家老となる関重嶷(せきしげたか)の日記。絵図は北麓(群馬県)側から天明三年(1783)の浅間山噴火と、引き続き起こった天明泥流の被害状況を描いている。
空高く噴煙を上げる浅間山が重ね絵で表現され、山麓には七月七日(太陽暦では8月4日)に発生して広範囲の原生林を焼き尽くした吾妻火砕流と、八日(同8月5日)に鎌原(かんばら)村を壊滅させた鎌原火砕流(岩屑(がんせつ)なだれ)が描かれている。浅間山の手前に、この地にはない万座山(まんざやま)があるのが興味を引くが、当初、万座山が火砕流の発生源と誤報されたものらしい。
鎌原火砕流(岩屑なだれ)は吾妻川に流れ込んで泥流となり(天明泥流)、利根川にも達して大洪水を引き起こした。伊勢崎藩領も洪水により大きな被害を受け、関重嶷は家老の父・当義(まさよし)とともに被災地の救済に取り組んだ。
※参考文献: 北原糸子・他編『日本歴史災害事典』(吉川弘文館,2012年)
萩原進編『浅間山天明噴火史料集成1:日記編』(群馬県文化事業振興会,1985年)
東京大学地震研究所図書室特別資料データベースレコードID:L000491 -
盤梯山噴火之圖
(ばんだいさんふんかのず)
この土佐光画による錦絵(多色刷り木版画)の右上の文章部分(詞書)には、明治21年(1888)の磐梯山噴火による被害の概要が記されている。左端には印刷・発行月日、発行人の住所が刷り込まれており、この錦絵が出版条例を遵守した印刷物であることが示されている。
磐梯山噴火による災害の惨状については、噴火直後から新聞・雑誌などで全国へ伝達されていた。この錦絵に描かれた惨状は必ずしも実態を示したものではなく、いくらかの誇張や脚色も含まれていた可能性がある。しかし、このような錦絵によって災害の具体的なイメージが全国へ広まり、新聞各社による義援金の募集に役立ったことは確かである。
※参考文献:内閣府中央防災会議 災害教訓の継承に関する専門調査会編『1888磐梯山噴火報告書』(2005年)
東京大学地震研究所図書室特別資料データベースレコードID:L000312
福嶋縣岩代国 ばんだいさん一ツトセぶし
(ふくしまけんいわしろのくに ばんだいさんひとつとせぶし)
この木版冊子は、明治21年(1888)の磐梯山噴火を素材とした数え歌である。数え歌は一つ、二つと数を追って歌っていく歌謡の一種であり、江戸時代以降、地方ごと時代ごとに様々な種類のものが作られた。磐梯山噴火の惨状を織り込んだ数え歌を作って流行らせることで、磐梯山噴火について世間に広く伝え、被災地への義援金を集める目的があった。
※参考文献:内閣府中央防災会議 災害教訓の継承に関する専門調査会編『1888磐梯山噴火報告書』(2005年)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
福嶋縣岩代国 ばんだいさん一ツトセぶし
明治二十一年八月三日印刷
同年同月六日出板
著者兼発刊人
下谷区御徒町一丁目四十三番地
佐野金之助
一つとせ
人の噂に聞くよりも
哀れは福島岩代よ
この磐梯山
二つとせ
不思議な雨風のその中に
にわかに破裂の磐梯山
この恐ろしや
三つとせ
見るも哀れは福島で
山も砕けた岩代の
崖も破裂の大騒ぎ
四つとせ
夜中にまたもや山響き
磐瀬若宮へ破裂して
立木も根扱ぎの恐ろしさ
五つとせ
一生懸命に逃れ出し
親子散り散り檜原の
村も埋もれ小野川よ
六つとせ
馬や牛まで埋没し
鳥も翼を失いて
声も細野(の)かあさ□こふ
七つとせ
泣く泣く訪ねる妻や子の
死骸も散り散り血の涙
袖でふくし(ひ)ま絶え間なき
八つとせ
山は動かぬものなりと
たとえに岩代も時節では
はっと砕けて破裂する
九つとせ
心細野(の)のその声も
哀れ雉子沢も泥水と
なって長坂(なかなか)とどまらぬ
十つとせ
東西南北分かちなく
一度に崩れて鳴動し
ふくこくつく息目も瞠る
(被害)地戸数 四百六十三戸
死傷人口 約五百十八人
埋没戸数 約百戸
(死)牛馬 約五十七頭
(被)害地人 二千八百九十一人
埋没地 約一万千三十二町二反十七歩
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
-
福嶋縣岩代国 ばんだいさん一ツトセぶし(1)
東京大学地震研究所図書室特別資料データベースレコードID:L000078
-
福嶋縣岩代国 ばんだいさん一ツトセぶし(2)
東京大学地震研究所図書室特別資料データベースレコードID:L000078
-
福嶋縣岩代国 ばんだいさん一ツトセぶし(3)
東京大学地震研究所図書室特別資料データベースレコードID:L000078
【参考文献】
・萩原進編『浅間山天明噴火史料集成1:日記編』(群馬県文化事業振興会,1985年)
・萩原進編『浅間山天明噴火史料集成3:記録編(2)』(群馬県文化事業振興会,1989年)
・内閣府中央防災会議 災害教訓の継承に関する専門調査会編『1888磐梯山噴火報告書』(2005年)
・内閣府中央防災会議災害教訓の継承に関する専門調査会編『1783天明浅間山噴火報告書』(2006年)
・北原糸子・他編『日本歴史災害事典』(吉川弘文館,2012年)
資料はすべて東京大学地震研究所所蔵
※このWebサイトは2015年の東京大学地震研究所一般公開で展示した“地震研究所図書室所蔵資料展示 火山絵図展”を基に作成しました。
出版物等に画像の掲載を希望される場合は当研究所への申請手続きが必要です。詳しくはこちらをご覧ください。
東京大学地震研究所図書室
113-0032 東京都文京区弥生1-1-1
Tel: 03-5841-5669
Fax: 03-5800-3859
Mail: sanko@eri.u-tokyo.ac.jp(@は半角)