明治24年(1891)のM8.0濃尾地震は当時の政府にも大きな衝撃を与え、東京帝国大学理科大学教授であり貴族院議員でもあった菊池大麓は、帝国議会に対し、地震被害を最小限に食い止めるための研究機関の設置を建議します。その結果、明治25年(1892)、震災予防の研究と実施を目的とした震災予防調査会が、勅令により発足します。
調査会委員として理科大学からは菊池大麓(だいろく)の他、小藤(ことう)文次郎、関谷清景、田中舘愛橘(たなかだて あいきつ)、長岡半太郎、そして大学を終えたばかりの大森房吉も加わり、調査事業嘱託としてミルンの名が見えます。 その他、工科大学、中央気象台、内務省土木局、農商務省などからも委員を迎えた学際的研究集団です。地質学・地球物理学・建築学等の広い視野に立って、地震・津波・火山噴火の記録収集、地震動・地温・地磁気・重力等の観測・研究、耐震家屋の設計や試験等の災害防止対策についての調査・研究を実施し、政府に提言していこうとするものでした。
地震の常時観測は気象台に任せることとなりましたが、明治26年(1893)には大学構内に委員の一員であった辰野金吾によって煉瓦造りの耐震家屋が建てられ、明治31年(1898)にここで地震観測が行われたことは明らかです。また大正10年(1921)には筑波山に微動観測所が設けられます。 一方、明治33年(1900)に調査会によって設置された京都・上賀茂観測所は、明治42年(1909)に京都帝国大学に移管され、同・理科大学に地球物理学科を開設した志田順(とし)が、地震波初動の4象限の押し引き分布の発見等、地球物理学上の業績を上げる舞台となります。
濃尾地震で生じた断層崖