濃尾地震から関東大地震まで

調査会の活動の多くは、東京帝国大学の教官が中心になって行われました。地震の常時観測は気象台に任せることになりましたが、気象台による地震観測拠点は、明治25年(1892)には25測候所であったものが、大正12年(1923)の関東大地震時には67ヵ所になっていました。この時期には、大森房吉による大森公式の発見、大森式地震計の開発、長岡半太郎・日下部四郎太による岩石弾性実験、佐野利器の家屋耐震構造論、物部長穂の耐震振動理論、また大森の発案による水戸・銚子両測候所における無線報時受信開始など、地震学上重要な研究が行われました。                                  田山実による日本地震史調査も、忘れるわけにいかないものです。これは後に『大日本地震史料』としてまとめられ、さらに改訂増補を加えられていくことになりますし、火山については『日本噴火史』が出版され、現在でも基本的資料となっています。

一方、外国においては、Lambの弾性波動伝播の研究、ラブ波の発見、弾性反発説の提唱、走時曲線の解析、モホロビチッチ不連続面・核の発見、地球内部のP波・S波の速度分布など、重要な研究が行われていました。日本での研究が地震現象そのものに向けられていたのに対し、外国においては地球科学としての地震学が発展しつつあったといえるでしょう。

調査会の活動前半においては、上記のように様々な分野の様々な研究者による活動がなされましたが、大正時代に入ると調査会としての活動は主に大森房吉によって担われることになります。出版物だけを見ても、『震災予防調査会報告』の50%以上、『同・欧文報告』の75%、さらに『同・欧文紀要』の98%は彼の執筆によるものです。

耐震家屋2.1

調査会によって東大構内に設けられ、地震観測された耐震家屋