③大正4~5年(1915~1916)の房総の群発地震に対する評価(前震の有無)
房総地方に於いて、6日間に65もの地震が群発し、人々の間での60年地震周期説とあいまって、不安が高まっていました。今村は「先ず今のところ九分九厘までは安全と思うが、然し精々注意を加え、火の元は用心して置くに越したことはない」と述べましたが、この防災を意図した発言が逆に作用し、戸外で寝泊まりする人まで現れる事態となりました。折から京都で大正天皇即位式が行われている最中でもあり、報せを受けた大森は「徒に市民に不安心を懐かしめ」たことを叱責し、○○先生からは「今村に任せて置いては例の人騒がせをするばかりだから」と、急遽帰京を促されたと書いています。
しかし何といっても社会的にもっとも影響が大きく、大森に②や③の対応が求められることになった発端は、
④今村の「市街地に於る地震の生命および財産に対する損害を軽減する簡法」(1905)という文章(雑誌『太陽』)
でした。趣旨は火災による被害に対する注意が主になっていますが、「今、例を東京にとりて(中略)其の将来、如何なる時期に、如何なる大震を発生し、且つその損害が如何なる程度に上がるべきかを推測せんとす」「かくの如き大震が我帝都に再演せられなば、其の損害果たして幾何に上がるべきか。死者十万乃至二十万」 として、安政大地震以来50年を経過しているとして来る大地震への注意を促しました。
ところが翌年になって東京二六新聞が、「今村博士の説き出せる大地震襲来説、東京大罹災の予言」というセンセーショナルな見出しを付け、「学理より大地震の襲来を予言」などと報じたことから、デマなども流され社会的な問題に発展します。大森から知らされた今村はさっそく記事の訂正を求めますがかなえられず、他紙も「 大地震襲来は浮説」などと沈静化に努めましたが収まる気配はなく、そこで説かれた防災の心得なども、かえって人々の不安を煽る結果になりました。
さらに記事から一月近く経つ頃、東京では二日続けて強い地震があり、中央気象台員をかたる者が、「午後三時と五時の間に東京に大地震あるべければ用心すべき趣」を電話であちこちに通報するなどの、悪質なデマも飛び交うようになります。大森は遂に「東京と大地震の浮説」という一文を雑誌に掲載し、今村の前稿を「学理上根拠無きものなれば」「今後約五十年の内に、東京に大地震が起こりて、二十万人の死傷者を生ずべしとの浮説」として「俗説・迷信」と並べて厳しく批判しました。『震災予防調査会報告』でも同趣旨の厳しい批判を繰り返しています。
大森房吉と今村明恒(その4)