噴火 その6

明治13年9月(1880.9)
御鉢の近来の噴火についてその概要を摘録すると、明治十三年九月頃まで極めて静穏な状況だったが、同月突然爆発してから以後活動状態を中断することなく、蒸気・二酸化硫黄ガスの噴出は次第にその勢いを増し、噴火口内におびただしく硫黄の堆積が見られるようになり、争ってこの採掘に従事するようになったが、明治二十二年〈1887〉十二月の爆発により、硫黄の堆積物は火口外に飛散して跡を留めなかった。[地学雑誌 山上理学士]

 

同 20年5月(1887.5)
噴火。[今村理学博士による]

 

同 21年2月21日(1888.2.21)
噴火、一昼夜に三・四回鳴動し噴煙は空を覆い、飛んだ火山灰は四・五里に及んだ。五月九日に噴火。[日本山嶽志]

 

明治二十一年の秋、私が九州を巡回した際、たまたま鹿児島において一週間の滞在中に、旅館から毎日午後に噴煙の状況を遠望する好機を得た。ほとんど二時間ごとに定期的に噴煙が上がり、その様子は実に荘厳で、蒸気に混じって噴煙が中空に聳えるところは、あたかも巨大な噴水を見るようだった。[地質要報 マキスフェスカ氏記事]

 

同 22年12月10日~18日(1889.12.10~18)
御鉢と呼ぶところは、明治十七・八年〈1884,1885〉の頃からだんだん噴火の勢いを増し、同二十一〈1888〉年二月頃に至っては鳴動や噴火が甚だしく、実に容易ならざる様子だった。しかし以後その勢いが衰え、一日一回ないし二回の噴煙を見る程度になったが、先月十日午前一時頃に突然大噴火し、その響きは激しい雷のようで、黒煙は空に満ち噴出する火石は中天に上がり、昇降の際に互いにぶつかり合い、あるいは飛散し、あるいは破裂するなど、その様子はあたかも花火のようで、散乱した火石は降り積もった硫黄に燃え移り、盛んに延焼してほとんど野火と異ならない奇観を呈し、その降灰は遠く数里におよんで噴煙は甚だしく、灰を降らし砂礫を昼夜七・八回飛ばしたが、なかでも同十八日午後零時三十分頃からの噴火は、鳴動、火炎、噴煙共にいっそう甚だしく、空は朦朧となり降灰は地上二・三分の厚さに堆積した。そうしたところ幸いに西風が吹き始め、そのため同村では被害を免れたが、西諸県郡高原村などはその風が吹きなびいて黒煙が空に満ち、そのため晴天はにわかに暗黒となって白昼に道が分からなくなり、灯で照らして逃げ出す者がいた。以後、昼夜鳴動・噴煙が止まなかったが、特に甚だしい異常は認められなかった。[鹿児島県報告 明治二十三年一月二十三日官報]