東京大学地震研究所と愛媛大学地球深部ダイナミックセンター(GRC)は、2015年12月24日に、相互の連携・協力を推進し、素粒子などを用いた地球深部研究の発展に、新たに重要な役割を果たすために連携・協力協定を締結しました。この協定締結を記念した「愛媛大GRC・東大地震研協定記念講演会」が4月29日に愛媛大学南加記念ホールで開催されます。
PDF(講演会チラシ)
東京大学地震研究所と愛媛大学地球深部ダイナミックセンター(GRC)は、2015年12月24日に、相互の連携・協力を推進し、素粒子などを用いた地球深部研究の発展に、新たに重要な役割を果たすために連携・協力協定を締結しました。この協定締結を記念した「愛媛大GRC・東大地震研協定記念講演会」が4月29日に愛媛大学南加記念ホールで開催されます。
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ウェブサイト立ち上げ:2016年4月15日
最終更新日:2016年4月27日
「平成28年(2016年)熊本地震」は4月14日21時26分以降に発生した熊本県を中心とする一連の地震活動を指します。
(気象庁資料による)
*報道関係の皆さま、図・動画などを使用される際は、必ず「東京大学地震研究所」と、クレジットを付けてご使用ください。
平成28年(2016年)熊本地震(M7.3)の地表地震断層調査
(石山達也(東京大学地震研究所)・松多信尚(岡山大)・石黒聡士(愛知工業大)・
廣内大助(信州大)・杉戸信彦(法政大))
平成28年(2016年)4月16日に発生した熊本地震(M7.3)に際しては、地表地震断層が出現したことが広島大学の研究グループによる第一報によって報告されました(熊原ほか、2016)。地表地震断層は、震央の位置や地震の規模、余震分布などから、布田川断層帯・日奈久断層帯(例えば地震調査研究推進本部, 2013)に沿って広範囲に出現していることが予想されました。このことから、筆者らは広島大学を中心とする大学研究者と地震直後より連絡を取りながら、地表地震断層の分布や性状を明らかにすべく、地震発生の翌17日から同20日 にかけて、地表踏査を実施しました。ここでは、その結果について概要を報告します。なお、調査に際しては、地震発生直後の大変な状況にも関わらず、被災地の方々から温かい励ましの言葉とご協力を賜りました。また、広島大学の熊原康博・後藤秀昭・中田 高の各氏、名古屋大学の鈴木康弘氏をはじめとする大学研究者から地震直後より頂いた有益な情報により、調査を円滑に進めることができました。ここに記して感謝いたします。
当グループでは、熊原ほか(2016)で布田川断層沿いに顕著な右横ずれ変位が確認された益城町堂園(どうぞん)を中心に、既存の活断層図(池田ほか, 2001)を頼りに、布田川断層に沿って約4 kmの範囲と、布田川断層南端部について調査を行いました。また、南阿蘇村立野および西原村小森牧野においても地表地震断層調査を行いました(図1)。直接のアクセスや観察が困難な箇所については、飛行規制域を確認したうえで、愛知工業大および岡山大所有のUAV (Unmanned Aerial Vehicle; 無人航空機)を利用した撮影を行い、地表地震断層の分布・性状の把握に努めました。調査に際しては、地表地震断層の確認された地点についてはハンディGPSで位置を計測するとともに、変形マーカーが確認された箇所では標尺などを利用して地表における地震時変位量の簡易計測を行いました。また、研究グループ間で連絡を取り合い、重要箇所については地表地震断層の認定について相互確認を行うとともに、効率的な調査に努めました。
益城町堂園の北、木山川左岸では、既存のマッピングで示された布田川断層に概ね沿うように、堤防上道路を右横ずれさせる地表地震断層が確認されました(写真1)。これより南の地点では、1条の地表地震断層に沿って、およそ2 mの右横ずれ変位が認められます。これに対して、木山川左岸では、地表地震断層は2条認められ、北西側にステップして、河床を横断し、北東に連続するものとみられます。河床では、護床工が座屈変形・剪断破壊を被る様が観察されます(写真2)。また、南より続くトレース沿いの右横ずれ変位は約20 cm, 左ステップして北東に連続するトレース沿いの右横ずれ変位は約150 cm、両者の合計は約170 cmとなっています。このように、地表地震断層は変位量をほぼ一定に保ちながら、数百メートルごとに左ステップ雁行する様子が複数の地点で観察されました。このような地表地震断層の配列は、右横ずれ断層で発生した地震で普遍的に認められてきたものです(例えばYeats et al., 1995; 中田・岡田編, 1999)。また、地表地震断層沿いには、その一般走向に対して斜交する開口亀裂や圧縮性の変形が認められ、これらはいずれも右横ずれ剪断帯内部の変形構造(例えば狩野・村田, 1998; 山路, 2000)を示すものと思われます。
布田川断層中央部の大きな変位とは対照的に、布田川断層の南西端部では、非常に微細な変形が認められました(写真3)。ここでは畑の畝に僅か20cm程度の右横ずれ変位が認められるのみです。
また、大規模な斜面災害の発生した南阿蘇村立野では、白川右岸の舗装道路に約70 cmの右横ずれ変位が認められました(写真4)。地表地震断層は雁行配列を呈しながら最高点353 m(国土地理院1/2.5万地形図『立野』)の孤立丘を横断して断続的に分布します(写真5)。UAVによる撮影からは、開口亀裂が左ステップ雁行しながら孤立丘を横断する様子が捉えられ、孤立丘が成長したことを示唆します(写真6)。その東への延長部は大規模な斜面崩壊によって直接確認することが出来ませんが、大局的には阿蘇カルデラ内に連続するものとみられ、延長部の調査結果が待たれます。
布田川断層の南東側には、新旧の扇状地面を変位させる出ノ口断層(九州活構造研究会, 1989)が分布します。この北東延長部、小森牧野周辺では、北西向きの山地斜面上に北西側低下の新鮮な崖地形が見出され、今回の地震に際して出現したものとみられます(写真7)。崖地形はおおよそ北東走向でほぼ連続的に分布し、UAVを用いた撮影では、横ずれ変位よりも縦ずれ変位が顕著に認められ、布田川断層沿いで見られた地表地震断層とは様相を異にしています。
このように、今回の調査からは、熊本地震に際して、布田川断層に沿って典型的な右横ずれの地表地震断層が出現したこと、また布田川断層に並走する断層に沿っても地表地震断層が出現したことが明らかになりました。現在進行中の大学・研究機関の調査グループによる調査研究によって、熊本平野から阿蘇カルデラにかけての熊本地震に伴う地表変位の全容が明らかになるものと期待されます。また、今後明らかになる本震・余震分布や震源過程、InSAR・GPSなどに基づく断層モデルなどの地球物理学的なデータと統合的に検討することにより、熊本地震と活断層の関係をより詳しく明らかにすることが出来ると考えています。
文献
2016年4月14・16日熊本地震の震源過程
http://taro.eri.u-tokyo.ac.jp/saigai/2016kumamoto/index.html
(纐纈一起・小林広明・三宅弘恵
東京大学地震研究所・情報学環)
2016年4月16日熊本地震(Mj7.3)の強い揺れの特徴
(強震動グループ)
≪画像をクリックして動画をご覧ください≫
(古村孝志)
平成28年(2016年)熊本地震(M6.5)の地学的背景と布田川断層帯・日奈久断層帯について
(佐藤比呂志・石山達也・加藤直子)
平成28年(2016年)熊本地震(M6.5)は、九州を代表する活断層である布田川断層帯・日奈久断層帯の近傍で発生しました。東京大学地震研究所では、地震調査委員会での議論の一助となるべく、震源域の活断層の地学的な特徴について資料を作成・提出しました。ここでは、提出した資料に基づいて、今回の地震と布田川断層帯・日奈久断層帯との関係や、地学的な背景について予察的な報告を行います。
日奈久断層帯は、熊本県益城町木山付近から芦北町を経て、八代海南部に至る断層帯で、北東-南西方向に延び、全体の長さは約81 kmにおよぶ長大な活断層です。
日奈久断層帯は、変動地形、重力異常や地質構造などの特徴から、北より高野-白旗区間(長さ16 km)、日奈久区間(長さ40 km)、八代海区間(長さ30 km)に区分されています(推進本部、2013)。本断層帯の主要な部分を占める日奈久区間では、断層に沿って谷や尾根の明瞭な右横ずれをともない、右横ずれ主体の活断層です。地質構造・微小地震活動などの特徴から、北西傾斜の断層面をもつと考えられます。これに対して、今回の主な地震発生域である高野-白旗区間では、地質構造・微小地震活動などからほぼ垂直な断層面をもつと考えられます。また、活断層の地表表現も日奈久区間と異なり、崖地形を伴う比較的不連続な断層トレースで特徴付けられます。両区間の断層トレースはほぼ連続的に見えますが、詳しく見るとこの様な活断層の構造的な特徴についての違いがあります。布田川断層帯は、重力異常からも北側が低下する構造境界として明瞭です。また、日奈久断層の中央部の日奈久区間では、西側に低下した構造が明瞭です。これに対して、高野-白旗区間では、重力異常から推定される地下の構造は複雑です。このような区間ごとの断層構造の違いは、断層の成熟度の違いに対応していると考えられます。
日奈久断層帯では、これまで多くのトレンチ・ボーリングなどの古地震調査が行われてきました。その結果によれば、高野-白旗区間では、約1,200-1,600年前に最新活動が起こったとされています。これに対して、南側の2区間の最新活動はこれよりも有意に古いとされています(推進本部、2013)。このような区間ごとの古地震活動は、データは少ないながら、区間ごとの構造的な特徴の相違に対応しているようにも見えます。
今回の地震の本震および余震は、大局的には日奈久断層帯の高野-白旗区間沿いに発生しているように見えます。今後は、余震観測を行って正確な余震の位置を決定することや、地震にともなって地表に断層が出現したかどうか、その分布がどうなっているか、といった変動地形調査を実施するなどし、今回の地震の性質そのものをまず明らかにすることが大切です。また、余震の一部は布田川断層帯でも発生しているとのデータもありますので、この点についても詳しく検討する必要があります。その上で、今回の地震発生域と断層帯のセグメンテーションの関係や、本震・余震の震源メカニズム、地殻構造と地震発生様式を明らかにすることが、今回の地震の背景を正しく理解する上で非常に大切だと言えます。
文献
地震調査研究推進本部(2013)九州地域の活断層の地域評価, http://www.jishin.go.jp/evaluation/long_term_evaluation/regional_evaluation/kyushu-detail/, 2016年4月15日確認
2016年4月14日 熊本県熊本地方の地震(Mj6.5)の強い揺れの特徴
(強震動グループ)
(古村孝志)
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ウェブサイト立ち上げ:2016年4月15日
更新日:2016年4月19日
2016年4月14日、21:26分頃、熊本県熊本地方でM6.5(気象庁による)の地震がありました。
*報道関係の皆さま、図・動画などを使用される際は、必ず「東京大学地震研究所」と、クレジットを付けてご使用ください。
2016年4月14・16日熊本地震の震源過程
http://taro.eri.u-tokyo.ac.jp/saigai/2016kumamoto/index.html
(纐纈一起・小林広明・三宅弘恵 東京大学地震研究所・情報学環)
2016年4月16日熊本地震(Mj7.3)の強い揺れの特徴
≪画像をクリックして動画をご覧ください≫
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地震研正門脇のモニュメント
本郷通りから少し奥まったところにある地震研究所正門脇に、不思議なモニュメントがあります。その正体は、もうしばらく後で。 門を入ると、もっとも奥の真新しい建物が1号館です。エレベーターの前に立つと、ドアの上に1枚の銘板が掲げられており、次のような文章が刻まれています。開所10周年の年に、地震研究所設立に大きな役割を果たした寺田寅彦によって撰せられたものです。
寺田寅彦博士により起草された本所の使命
明治廿四年濃尾地震の災害に鑑みて震災豫防調査會が設立され、我邦における地震學の研究が漸く其緒に就いた大正十二年帝都並に關東地方を脅かした大地震の災禍は更に痛切に日本に於ける地震學の基礎的研究の必要を啓示するものであつた。この天啓に促されて設置されたのが當東京帝國大學附属地震研究所である。創立の際專らその事に盡瘁した者は後に本所最初の所長事務取扱の職に當つた工學博士末廣恭二であつた。其の熱誠は時の當大學總長古在由直を動かし、その有力なる後援と文部省當局の指示とによつて遂に本所の設立を見るに至つたのが大正十四年十一月十三日であつた。本所永遠の使命とする所は地震に關する諸現象の科學的研究と直接又は間接に地震に起因する災害の豫防並に輕減方策の探究とである。この使命こそは本所の門に出入する者の日夜心肝に銘じて忘るべからざるものである。
昭和十年十一月十三日 地震研究所
人類は古くはアリストテレスから、地震という現象について深い関心を持ってきました。2世紀の中国において、張衡が世界最古の地震計を作ったといわれています。瓶に8個の玉を加えた竜頭が付いており、揺れを感じると揺れが来た方角の竜が玉を吐き出し、それを下の蛙の口で受け止める、といったものでした。近代的な意味での地震計ではなく、震動を感じる感震器という方が良いでしょう。
日本は地震多発国であり、人々の関心も低くはなかったと思われ、記録も多く残されていますが、地震という現象の奥深くへの科学的な探究は、近代の到来を待たねばなりませんでした。
一方、ヨーロッパ各国における古典地震学は、1755年のポルトガルの首都リスボンを襲い、死者3~7万人を出したリスボン地震が、その誕生の大きなきっかけになりましたイギリス人John Michell(ジョン・マイケル)などもその一人で、現代の目から見れば、その研究結果に問題はあるにしても、当時すでに地震の原因や震源決定法についての考察を始めていたことには驚かされます。しかし彼の没後、19世紀半ば頃までの数十年間の間、残念ながら地震研究は見るべき成果に乏しい沈滞期を迎えます。
やがて19世紀後半になると、アイルランド人Robert Mallet(ロバート・マレット)、イギリス人William Hopkins(ウイリアム・ホプキンズ)、ドイツ人Karl von Seebach(カール・フォン・ジーバッハ)たちの手で、震源の位置や深さを知るための、さまざまな地球物理学的方法が研究されるようになります。マレットはseismology(地震学)、epicenter(震央)などの用語の創始者でもあり、その著“The Dynamics of Earthquakes(地震の力学)”は、近代地震学の基礎を準備したといわれています。
わが国における最初の地震観測は明治5年(1872)、政府のお雇い外国人であったオランダ人G.F.Verbeck(フルベッキ)により、東京・日本橋において、長さ6フィート(約1.8m)の振り子を用いて試みられました。またドイツ人E.Knipping(クニッピング)もこれと別個に、振り子による観測を行いました。
幕末から明治初期にかけては、旧幕府も新明治政府も、政治・経済・軍事・文化等々様々な分野において、近代化を急ぐ必要に迫られていました。その相談・指導に当たったのが、政府によって招聘された「お雇い外国人」でした。その数は明治元年(1868)から明治22年(1889)だけでも、イギリス人928名、アメリカ人374名、フランス人259名など、2,299名にも上っています。
G.F.Verbeck(フルベッキ)を例に取ると、オランダで工科学校を卒業しましたが、その後アメリカに渡って神学校に入学。上海を経由して日本に入国したのは、米国オランダ改革派教会の宣教師としてでした。ところが維新前のことで、宣教師としての活動はできず、英語などを教えて生計を立てていましたが、その間に大隈重信、副島種臣らと親交を結び、維新後は政府の法律顧問などの経歴を持つに至っています。
Knippingは商船学校卒業後、航海士として来日しましたが、大学南校)(東京大学の前身)でドイツ語・数学の教師を務め、後には日本最初の天気図を作成し、「全国一般風ノ向キハ定リナシ 天気ハ変リ易シ 但シ雨天勝チ」という天気予報第1号を出したことでも知られています。
G.F.Verbeck
E.Knipping
一方、政府においては明治6年(1873)函館気候測量所で、機器によらない人間による地震観測が開始され、明治8年(1875)には東京気象台(気象庁の前身)が設けられました。
内務省地理寮に測量技師として招聘されたH.Scharbau(シャーボー、フランスからイギリスに帰化)が、特別にイタリアに発注したというPalmieri(パルミエリ)地震計を持参し、器械による正式な地震観測がイギリス人H.Joyner(ジョイネル)によって始められました。この地震計はイタリア人L.Palmieriにより、ベスビオ火山の地震観測用に考案されたものです。地震の発生時刻と持続時間を記録する装置、地震動の強さと方向を知らせる装置、感震部などからなり、感震部にはU字型ガラス管に満たした水銀の上に浮かべた鉄球のウキ、スプリングなどが用いられていました。地震波形を記録できるものではなかったので、感震器と呼ぶのが適当でしょう。現在の東京都港区赤坂、ホテルオークラのあたりに設置されました。
明治13年(1880)の横浜地震がきっかけとなり、日本における近代地震学の扉を開いたのもお雇い外国人でした。中でも忘れるわけに行かないのは、“Earthquake Milne(地震屋ミルン)”とあだ名されるようになったJohn Milne(ジョン・ミルン)、James Ewing(ジェームズ・ユーイング)、そしてThomas Gray(トマス・グレイ)の3人です。
John Milne
James Ewing
3人はいずれもイギリス人。ミルンは工部省工学寮の教師に招かれましたが、この組織は工部大学校に改変され、さらに東京大学理学部と合併して東京帝国大学工科大学となります。ユーイングは明治13年にすでに実用的な水平振子を用いた地震計を考案し、大学は彼のために神田一ツ橋(現在の神田錦町)にあった構内に、地震学実験所を設けました。またグレイは、スプリングを用いた上下動の観測法を考案しました。
この3者の工夫を集成して作られた「ユーイング=グレイ=ミルン地震計」によってようやく、地震動の水平2成分・上下成分・時刻を記録することができる、本格的な地震観測機器ができあがったと言って良いでしょう。東京気象台においても明治18年(1885)、Palmieri地震計による観測を止め、ユーイング=グレイ=ミルン地震計による観測を開始しました。
Ewing水平振子地震計(模型)
ユーイング=グレイ=ミルン地震計による地震観測が、神田一ツ橋(現在の神田錦町)にあった東京大学理学部の地震学実験所で始められました。
話が前後しますが、ミルンのもう一つの画期的な仕事は、世界で初めての地震学会となる「日本地震学会」を設立したことです。ミルンは会長就任を要請されましたが断り、東京大学の服部一三が会長に迎えられました。しかし会員の内訳を見ると、会員117名の内、日本人37名、外国人70名というものであり、在外外国人も含めた外国人がメンバーが多数を占めていました。その中には『一外交官の見た明治維新』の著書で知られるイギリス外交官アーネスト・サトウ、東洋美術史家として名高いアーネスト・フェノロサ、明治天皇の肖像画を描いたエドアルド・キヨッソーネなどの名も見えます。
1880年4月に開かれた総会で、ミルンは最初の講演を行いました。その冒頭で語られたのは、「地震と火山に結びついたあらゆる事実を集めて組織化するのが、この会の主な目的」ということでした。学会は“Transactions of the Seismological Society of Japan”(日本地震学会欧文報告)を発行し、その主な論文は『日本地震学会報告』として、後に東京帝国大学の地震学・初代教授となる関谷清景たちによって、翻訳・発行されました。
Transactions of the Seismological Society of Japan
日本地震学の黎明期、『日本地震学会報告』にどのような記事が掲載されていたのか、目次を拾ってみることにしましょう。
『日本地震学会報告 第一冊』(明治17年発行)
地震学総論 ジョン・ミルン
新案地震計 G・ワグネル
東京ニ於テ重力ノ測定 T・C・メンデルホール
水平動験測ニ用ユル新案地震計 J・A・ユーイング
明治十三年二月廿二日日本地震記 ジョン・ミルン
富士山頂擺子ノ実験 T・C・メンデルホール
『日本地震学会報告 第二冊』(明治18年発行)
日本地震観測論 ジョン・ミルン
富士山ノ記 和田維四郎
上下動地震計 トーマス・グレイ
明治14年4月~同18年5月の地震リスト(東京を除く)
雑報
『日本地震学会報告 第三冊』(明治19年発行)
地皮微動之説 ジョン・ミルン
明治十七年十月十五日地震ノ記 関谷清景
気浪及海浪ノ説 和田雄次
ミルンの精力的な活動がうかがわれるとともに、新しい地震計のアイデアが次々と公開されています。