ミルン『地震学総論』(その1)

ミルンによる日本地震学会設立総会の冒頭演説を記録した“SEISMIC  SCIENCE  IN  JAPAN.(日本地震学総論)”を、のぞいてみましょう。

まずミルンは、これからの日本の地震学が地震暦のような単なる「地動ノ記載」に止まることなく、「地震ノ原因」と「其ノ万物ニ及ボス影響」を広く論究する必要があると、研究のあるべき方向を示唆しています。そしてそのために、地質学・物理学・気象学・天文学・数学・工学・医学・動植物学・歴史学との連携という、遠大な構想を述べています。 特に主要研究対象として指摘しているのは、「地震発起ノ原因」と、それを「前知スルノ方法」です。

「地震発起ノ原因」については、地下の熱を想定しており、地震が火山との密接な関係において考えられていた当時の研究水準を反映するもので、現在の目から見ればいささか的外れといわなければならない部分もあります。しかし「前知スルノ方法」に関しては、当時日本のみならずヨーロッパでもいわれていた諸現象(鳥獣の振る舞い、気圧、気温、発光現象、降雨、電磁気現象、火球、太陽黒点、太陽・月の引力)との関係の有無を検討し、それぞれ興味深い論証を加えています。

SEISMIC SCIENCE IN JAPAN.

地震学総論

 

その結論としては、「数多ノ事実ヲ蒐集シテ其関係ノ有無ヲ論究スルヨリハ寧ロ最初ニ其ノ有無ノ真否ヲ論定スルコト最モ肝要ナリトス」というものでした。

蒐集した諸現象にいたずらに振り回されることなく、理論的な可否をまず論じようという姿勢は、今の研究者にも引き継がれている基本的な姿勢でしょう。

ミルン『地震学総論』(その2)

この時期の地震学の発展にとって、いかに正確な地震計を設計・製作するかは、大きな課題でした。ミルンはクニッピング、パルミエリ、ワグネル、ユーイング、グレイ、フルベッキたちによる地震計設計の要点を紹介しています。

地震計設計のポイントは、「地震が来ても動かない点=不動点」を作り出すことですが、地上に完全な不動点を設けることは不可能です。そのために、見かけ上の不動点を設けるために、「振り子の原理」が用いられました。“慣性モーメントが大きく周期の長い振り子は、その支点が動いてもすぐには動き出さず、一見、不動点として振る舞う”という原理です。

白い紙を地面に置き、つり下げた振り子の先にペンをつけて、地震動を描かせる——–ペンと紙の動きを日常の筆記とは逆にしたもの、と考えればよいでしょう。動くのは紙で、ペンは動かないのです。

中でも古いフルベッキによるものは、現物も設計図も残っていませんが、ミルンによって、「地上ニ安置シタル大理石ノ板上ニ四個の水晶球ヲ排列シ其上ニ重厚ナル木板ヲ措キ底面ニ指針ヲ附シタル者ナリ」と記録されています。「重くぶ厚い木の板と、水晶の球」に、不動点を作る役目をさせたのでした。

フルベッキの地震計

ミルン『地震学総論』(その3)

ミルンのこの演説の注目すべき点は、前回までの純・地球科学的な基点をしっかり守りながらも、減災・防災の視野を失っていないところでしょう。地震がたびたび大きな災害に結びつかざるを得なかった日本では、それは差し迫った課題でしたが、『日本地震学会報告・目次』でもわかるように、他のお雇い外国人研究者にはあまり見られない姿勢でした。

たとえばフランス人建築技師J.Lescasse(J.レスカス)が、耐震性を考慮して建てた三菱会社倉庫を紹介するのに続き、当時すでに木造家屋と地震動の関係についての研究が始まっていたことにも触れています。そしてさらに驚かされるのは、現在ようやく一般にも知られるようになった「太平洋津波警報センター」や「緊急地震速報」のアイデアが、すでにこのときに始まっていることです。

明治10年(1877)、チリ沿岸で発生したM8.3の大地震による津波は、地元では多数、途中ハワイでも5人の死者を出しながら、北海道・千島にまで24時間かかって到達しました。彼は津波の速度の速さを指摘しながらも、電信を用いて発生を連絡すれば、大きな被害は免れるはずだと言います。

またそれほど遠距離でない東京・横浜間のような場合でも、最初に地震動を感じたところが電信で警報を発し、警報を受け取った側は大砲の音で人々に、地震動の到来を予告することを提案しているのです。すでに人工地震の実験に着手していることにも、驚かされます。

在日期間の短い他の雇い外国人と違い、日本人の妻を得、日本での生活が19年という長い年月に及ぶことになるミルンにとって、地震災害は対岸の火事ではなかったのでしょう。

横浜地震と墓石の回転

世界初の地震学教授

明治18年(1885)に東京大学理学部は本郷に移転し、一ツ橋の地震学実験所はそのまま残し、本郷にも新たに地震学実験所が設けられました。関谷清景(〝きよかげ〟、後に〝せいけい〟)は物理学教授ユーイングの助手として、彼を助けます。

翌明治19年(1886)、新しい組織となった東京帝国大学に理科大学ができると、世界初の地震学が開講され、関谷が教授となりました。しかし当時、地震学はまだ独立した学問と認められておらず、主に聴講したのは工科大学の土木工学科や造家学科の学生だったようです。明治26年(1893)には講座制が布かれ、地震学講座が誕生することになります。

明治20年代には、明治21年(1888)に山体崩壊を起こした結果、死者477人、5村11集落がほぼ埋没という磐梯山噴火(美しい五色沼は、この山体崩壊が生んだものです)、明治22年(1889)熊本地震、明治24年(1891)のM8.0とわが国最大の内陸地震で、死傷者2万4千余人、全半壊家屋24万余棟の被害を出した濃尾地震と、大きな爪跡を残す地変が続きました。関谷は鉄道の発達も不十分な中、病躯を押してこれらの現地災害調査にも出向き、特に庶民の関心の高かった磐梯山噴火については、大学通俗講談会を開いて講演し、会場は満員だったと伝えられています。

その無理が、ロンドン留学中に罹患したのではないかといわれる肺結核をさらに悪化させるこことなり、後に述べる震災予防調査会の委員を命じられたのも、大学を休職して何度目かの神戸での療養中のことでした。そして40歳の若さで、世を去ることとなります。

地震動の針金模型

関谷による地震動の針金模型の図

関谷清景

関谷清景

震災予防調査会

明治24年(1891)のM8.0濃尾地震は当時の政府にも大きな衝撃を与え、東京帝国大学理科大学教授であり貴族院議員でもあった菊池大麓は、帝国議会に対し、地震被害を最小限に食い止めるための研究機関の設置を建議します。その結果、明治25年(1892)、震災予防の研究と実施を目的とした震災予防調査会が、勅令により発足します。

調査会委員として理科大学からは菊池大麓(だいろく)の他、小藤(ことう)文次郎、関谷清景、田中舘愛橘(たなかだて あいきつ)、長岡半太郎、そして大学を終えたばかりの大森房吉も加わり、調査事業嘱託としてミルンの名が見えます。                                  その他、工科大学、中央気象台、内務省土木局、農商務省などからも委員を迎えた学際的研究集団です。地質学・地球物理学・建築学等の広い視野に立って、地震・津波・火山噴火の記録収集、地震動・地温・地磁気・重力等の観測・研究、耐震家屋の設計や試験等の災害防止対策についての調査・研究を実施し、政府に提言していこうとするものでした。

地震の常時観測は気象台に任せることとなりましたが、明治26年(1893)には大学構内に委員の一員であった辰野金吾によって煉瓦造りの耐震家屋が建てられ、明治31年(1898)にここで地震観測が行われたことは明らかです。また大正10年(1921)には筑波山に微動観測所が設けられます。                                    一方、明治33年(1900)に調査会によって設置された京都・上賀茂観測所は、明治42年(1909)に京都帝国大学に移管され、同・理科大学に地球物理学科を開設した志田順(とし)が、地震波初動の4象限の押し引き分布の発見等、地球物理学上の業績を上げる舞台となります。

濃尾地震で生じた断層崖

濃尾地震で生じた断層崖

震災予防調査会の仕事

『震災予防調査会報告 第1号』に、この調査会の事業の目的について、「地震の災害を予防する事ができる手段の調査」にあると前書きし、「一面に於ては地震を予知する方法があるのか否か」、また「一面に於ては地震が起こった際にその災害を最少にする計画を作る」ことにあるとしています。そしてそのために、「調査事業の一部分はもっぱら理学に関し、一部分は主として工学に関係するが、両者の間には緊密な関係があり、分離すべきではない」とした上で、次のように具体的な調査項目を挙げています。

1.地震、海嘯、噴火、破裂等に付て事実を蒐集する事          
2.古来の大震に係る調査即地震史を編纂する事              
3.地質学上の調査                                                               
4.地震動の性質を研究する事                     
5.地震動伝播速度を測定する事                     
6.地面の傾斜並に「パルセーション」を測定する事            
7.地上及地中の震動を比較する研究                   
8.全国の磁力を実測し等磁線の配布を測定し且地磁気観測所を設置し其変遷を観測する事
9.地下の温度を観測する事                       
10.重力の分布及其変遷を測定して地殻抑圧の変化を研究する事      
11.緯度の変位を観測し及水準の変遷を調査し地歪の漸進を視察する事   
12.構造材料の強弱を試験する事                     
13.各種の耐震家屋を計画し之を本邦地震の多き地方に建築する事     
14.構造物の雛形を作り人為の震動を与へて其強弱を試験する事      
15.現今の構造物中に付震災に関係あるべきものを予め調査し置く事     
16.各種の地盤上に於て地震動の多少を比較測定する事           
17.地震動を遮断するの試験をなす事                  
18.調査報告を出版して広く頒布する事

濃尾地震から関東大地震まで

調査会の活動の多くは、東京帝国大学の教官が中心になって行われました。地震の常時観測は気象台に任せることになりましたが、気象台による地震観測拠点は、明治25年(1892)には25測候所であったものが、大正12年(1923)の関東大地震時には67ヵ所になっていました。この時期には、大森房吉による大森公式の発見、大森式地震計の開発、長岡半太郎・日下部四郎太による岩石弾性実験、佐野利器の家屋耐震構造論、物部長穂の耐震振動理論、また大森の発案による水戸・銚子両測候所における無線報時受信開始など、地震学上重要な研究が行われました。                                  田山実による日本地震史調査も、忘れるわけにいかないものです。これは後に『大日本地震史料』としてまとめられ、さらに改訂増補を加えられていくことになりますし、火山については『日本噴火史』が出版され、現在でも基本的資料となっています。

一方、外国においては、Lambの弾性波動伝播の研究、ラブ波の発見、弾性反発説の提唱、走時曲線の解析、モホロビチッチ不連続面・核の発見、地球内部のP波・S波の速度分布など、重要な研究が行われていました。日本での研究が地震現象そのものに向けられていたのに対し、外国においては地球科学としての地震学が発展しつつあったといえるでしょう。

調査会の活動前半においては、上記のように様々な分野の様々な研究者による活動がなされましたが、大正時代に入ると調査会としての活動は主に大森房吉によって担われることになります。出版物だけを見ても、『震災予防調査会報告』の50%以上、『同・欧文報告』の75%、さらに『同・欧文紀要』の98%は彼の執筆によるものです。

耐震家屋2.1

調査会によって東大構内に設けられ、地震観測された耐震家屋

大森房吉と今村明恒(その1)

大森の震災予防調査會での八面六臂の活躍を支えていたのは、今村明恒(あきつね)です。大森と今村は東京帝国大学理科大学の3年違いの先輩・後輩の関係で、今村が入学した年、大森は闘病生活中の関谷に代わり、大学院生のまま地震学助手を委嘱されます。後に大森は東京帝国大学地震学教室の教授、今村は助教授となりますが、今村は本来の身分は陸軍教授で、帝国大学の方は23年間無給の助教授でした。大森には『地震学講話』、今村には『地震学』の著作があり、明治・大正期の我が国の地震学の骨格を示すものとなっています。

地震学講話

『地震学講話』(大森房吉)目次       
1.諸説                   
2 .地震と火山との関係           
3.地震と時との関係             
4.大地震の余震               
5.地震と地理との関係             
6.地震動略解                
7.地震観測器械               
8.普通地震動の験測              
9.極小の微動                
10.脈動                   
11.遠地地震の観測                 
12.地面の傾斜並に地震動の性質       
13.東京(江戸)の地震           
14.大地震の震動および震害           
15.構造物の震害                 
16.単一なる構造物の震害             
17.耐震家屋構造に関する注意         
18.鉄骨および鉄筋構造と米国 加州の地震
19.橋梁、烟突、灯台、水道、道路、堤防等の震害
20.海水の震動
21.震動区域、震原地震の原因
22.地震の予知及び震害の防御
22.地震の予知及び震害の防御

地震学

『地震學』(今村明恒)目次
1.地震の現象
①近世の地震に就て
②歴史地震
2.地震の分布
①地震の発生地
②地震の発生期
3.地震の観測
①普通地震計
②記象の分析
③微動計
④観測の結果
⑤地震観測器械の応用
4.震災軽減法
①地震に遭遇したる時の注意
②地震の前知法
③震災を避くべき位置の選定
④建築法

大森房吉と今村明恒(その2)

大森房吉の震災予防調査会での活躍は以前にも触れましたが、お雇い外国人研究者の後を受けて大森は獅子奮迅の働きをしました。明治・大正期の地震学がときに「大森地震学」と呼ばれることが、よくそれを表しています。

彼の多くの業績の中から代表的なものとしては、
1.大森式水平振子地震計(大森式地動計)の開発
2.「大森の絶対震度階」の 設定
3.余震の減少等に関する研究
4.初期微動と震源距離の関係式の研究
などが挙げられますが、その中心をなす性格は、「統計的地震学」といえるものです。たとえば彼は地震と気象との関連に関心を持っていましたが、地震頻度と気圧の相関を見ようとしていることなどもその一例でしょう。

大森式長周期地震計

特に初期の地震学の発展は、精度・信頼性の高い地震計の開発と共にありました。中央気象台の観測業務に当初用いられたのは、ユーイング式かすがい地震計、グレイ=ミルン=ユーイング式地震計などでしたが、やがて彼が開発した大森式地動計・微動計・簡単微動計が併置されるようになります。そして各測候所から中央気象台に集められた観測資料を受けて、震源地を決定し公表するのは大森個人にゆだねられていました。地震観測における中央気象台の東京帝国大学地震学教室からの独り立ちは、中央気象台長・岡田武松を待たなければなりませんでした。

またたとえば、サンフランシスコで「地震学における世界最高の権威者」と紹介されるなど、彼の国際的な活躍も見逃すわけにはいきません。ブリタニカ百科事典(1902)などは、「奇妙に見えるだろうが、地震現象に関する研究の進歩および関心の世界的な拡大は、日本での成果から始まった」 と記しています。インド・カングラ地震(1905)、サンフランシスコ地震(1906)、イタリア・メッシナ地震(1907)と、立て続けに外国へ現地派遣されたりもしています。