噴火 その5

享保2年1月3日(1717.2.13)
正月三日、霧島山の新しい噴火はまたまた規模が大きくなり、これ以後七日から十一日まで続いて大噴火。その付近は火石で家屋が焼失し、錫杖院は寺家残らず焼失、田畑は石・灰で埋まり牛馬が多く死亡した。高原、高崎両所の役人たちまで方々へ引き移った。
昨年の十二月二十六日からこの正月十一日までたびたび大噴火し、日向国諸県郡の損失は左記の通り。
田畑 十三万六千三百坪余り
石・砂・灰の量 三万七千九百五十石余り
雑穀 千五百四十石余り
堂社 十一宇、寺家三十軒、寺の門前五十三軒、社家二十六軒、百姓家十四軒、死者 男一人、怪我人三十人、死亡した牛馬 四百二十匹。[福島厳之介編纂 鹿児島県噴火書類]

 

日向国霧島山は、昨年の九月から噴火を始め震動が止まなかったが、昨年の十二月二十八日、九日の二晩、おびただしく震動し、同国御代官所の那珂郡、諸県郡の十三ヵ村、石高一万石余りの所、霧島山からは道にして十里あまりあるところへ焼灰・砂利がだんだん降り、この正月三日の朝五つ半時から九つ時までに、大地震があり、砂混じりの焼石が降り積もり、田、麦畑、菜園を埋めること四・五寸、あるいは七・八寸、ことごとく砂地になり、御代官室七郎左衛門から注進があった。[承寛襍禄]

 

享保二酉年三日辰の刻頃から、空が夜のように闇になった。ただ東西南北の麓は晴天で、島中の村々家々の中はしばらくの内、暗かった。同月七日に大地震、同十日申酉の方角から小雨のような白い砂が降った。[八丈島年表]
考えるに、正月三日に八丈島に於いて闇になったのは、霧島噴火の細かな灰が疾風に吹き送られて、八丈島に落ちたのだろう。同月十日に小雨のような白い砂が申酉の方角から降ったとあるのも、  同じく霧島山から来たのだろうか。霧島山は八丈島からは西南西、すなわち申酉の方角に当たる。

正月七日にまた噴火し、俗に両部岳の新噴火という。諸県郡の諸村の田畑は、被災したもの十三万六千三百余区という。[三国名勝図絵]

同 2年8月15日(1717.9.19)
大噴火。土・灰がしきりに飛び、近郷の田を埋めること数十里に及んだ。[日本災異志]

明和8年(1771)
明和八年から翌年〈1772〉にいたるまでまた噴火し、およそ享保元年〈1716〉からこの年までしばしば盛んに噴火した。焼石は炎となって空から落ち、砂石は糠をかぶったようで、灰燼が降って昼も夜と変わらない。通行する人は筵を頭に乗せて負傷するのを防いだ。数里の間、田畑を埋没させ、草木は焦げて枯れた。[三国名勝図絵]

文政4年12月20日(1822.1.12)
噴火。[今村理学博士の調査による)

噴火 その6

明治13年9月(1880.9)
御鉢の近来の噴火についてその概要を摘録すると、明治十三年九月頃まで極めて静穏な状況だったが、同月突然爆発してから以後活動状態を中断することなく、蒸気・二酸化硫黄ガスの噴出は次第にその勢いを増し、噴火口内におびただしく硫黄の堆積が見られるようになり、争ってこの採掘に従事するようになったが、明治二十二年〈1887〉十二月の爆発により、硫黄の堆積物は火口外に飛散して跡を留めなかった。[地学雑誌 山上理学士]

 

同 20年5月(1887.5)
噴火。[今村理学博士による]

 

同 21年2月21日(1888.2.21)
噴火、一昼夜に三・四回鳴動し噴煙は空を覆い、飛んだ火山灰は四・五里に及んだ。五月九日に噴火。[日本山嶽志]

 

明治二十一年の秋、私が九州を巡回した際、たまたま鹿児島において一週間の滞在中に、旅館から毎日午後に噴煙の状況を遠望する好機を得た。ほとんど二時間ごとに定期的に噴煙が上がり、その様子は実に荘厳で、蒸気に混じって噴煙が中空に聳えるところは、あたかも巨大な噴水を見るようだった。[地質要報 マキスフェスカ氏記事]

 

同 22年12月10日~18日(1889.12.10~18)
御鉢と呼ぶところは、明治十七・八年〈1884,1885〉の頃からだんだん噴火の勢いを増し、同二十一〈1888〉年二月頃に至っては鳴動や噴火が甚だしく、実に容易ならざる様子だった。しかし以後その勢いが衰え、一日一回ないし二回の噴煙を見る程度になったが、先月十日午前一時頃に突然大噴火し、その響きは激しい雷のようで、黒煙は空に満ち噴出する火石は中天に上がり、昇降の際に互いにぶつかり合い、あるいは飛散し、あるいは破裂するなど、その様子はあたかも花火のようで、散乱した火石は降り積もった硫黄に燃え移り、盛んに延焼してほとんど野火と異ならない奇観を呈し、その降灰は遠く数里におよんで噴煙は甚だしく、灰を降らし砂礫を昼夜七・八回飛ばしたが、なかでも同十八日午後零時三十分頃からの噴火は、鳴動、火炎、噴煙共にいっそう甚だしく、空は朦朧となり降灰は地上二・三分の厚さに堆積した。そうしたところ幸いに西風が吹き始め、そのため同村では被害を免れたが、西諸県郡高原村などはその風が吹きなびいて黒煙が空に満ち、そのため晴天はにわかに暗黒となって白昼に道が分からなくなり、灯で照らして逃げ出す者がいた。以後、昼夜鳴動・噴煙が止まなかったが、特に甚だしい異常は認められなかった。[鹿児島県報告 明治二十三年一月二十三日官報]

噴火 その7

明治24年6月19日(1891.6.19)
十九日頃から大きな噴火をし、鳴動が激しく今なお止まない。[官報]

 

十九日頃から大きな噴火をし、一昼夜におよそ十四回鳴動が激烈で、黒煙を発し噴気が盛んなときには石を飛ばし灰を降らすなどの異常を呈し、山麓の一里内外は草木等の葉を枯れしぼませた。[地学雑誌第三集]

 

十一月十日頃から昼夜十四・五回ずつ大きな噴火をし、鳴動し黒煙を上げ、近傍一里内外に灰を降らし、ところどころ草木の葉を枯れしぼませたところがあった。同二十日頃からだんだん噴火、鳴動ともに減った。[地学雑誌第三集]

 

同 27年2月25日~28日(1894.2.25~28)
二月二十五日に噴火した。霧島の山麓部分においては、同日の鳴動前に不思議な音響を聞いたが、午前十時三十分に爆発し、黒煙は東に向かって流れ散り、宮崎地方に降灰があった。西諸県郡高原村大字蒲牟田字抜[祓の誤りか]川(霧島東麓)においては、灰とともに大豆大の小石を降らした。翌二十六日午前八時二十分に鳴動した。その翌日は前回に比較すれば小さく、ただその噴煙が平常時に比べてやや増えただけだった。今日二十八日午前七時五十一分にまた鳴動した。その響きは前に比べてやや大きかった。当地方に少し灰を降らした。[宮崎県庁報告]

霧島山の鳴動の余響だろうか、三月五日に鹿児島でも幾度となく遠地鳴動を聞いた。[明治二十七年三月六日鹿児島新聞]

 

二月二十五日午前十時三十分に鳴動した。十一時三十七分から同五十七分まで二十分間、焼砂を降らした。幅一尺七寸八分、長さ二尺四寸八分の紙(宮崎新報)で受けたところ重さが三分あった。すなわち一坪に二匁三分の割合である。[宮崎県庁電報]

 

同 28年7月16日(1895.7.16)
十六日午後零時三十分、鳴動が激しく、黒煙を噴出した。[宮崎県庁電報]
十六日午後零時二十六分十六秒、霧島岳が大音響とともに破裂した。[鹿児島県庁および同測候所電報]

噴火 その8

明治28年10月16日(1895.10.16)
午後零時三十分に噴火。鹿児島市では轟然たる爆発音が強く、山麓には焼石が落ちて一面に煙が立った。小林では大鳴動し、家屋・建物は揺れ動き黒煙は激しく、全村を暗くし灰煙を降らした。山の麓では焼石が落下したため家屋二十二軒が出火した。[明治二十八年十月十七日鹿児島新聞]

 

爆発口である御鉢の付近二・三丁のあたりで、この噴火に遭遇した三人連れの男および一名の老女は、いずれも落ちてきた石に打たれて惨死した。爆発の当日、鹿児島では強大な爆発音を聞いたが、霧島の麓(鹿児島県方面だろう)はこれに反して、少しも震動の音を聞かなかった。ただガチガチという奇異な響きをさせただけで、灰は甚だしく降ったという。[明治二十八年十月二十五日国会]

 

高原村では黒煙が空を通過したが降灰はなく、小林村も山に沿ったところだけで、作物に被害はなかった。[明治二十八年十一月九日宮崎新聞]

 

破裂の時刻は鹿児島測候所の公報によれば、十月十六日後零時二十六分十六秒である。降灰はわずかに四つの近くの山の梢の先端を覆ったに過ぎず、植物に害を与えるには至らなかった。日向の西諸県郡小林の近傍で多少の降灰があり、大隅国西曽於郡田口には著しい降灰はなかったという。小林は火口から北へ四里強隔たり、田口は破裂地を隔てること南西わずかに二里弱である。噴出した岩塊はその数すこぶる多く、その大きさは長径が二メートルに及ぶものがある。これらの多くの岩塊は、噴出の勢いによって西方に位置する中岳の側面に向かって無数の円錐形の小孔を穿った。その最も遠くに達したものは、噴火口から約二キロメートルのところにある。そしてこれらの円孔は、御鉢から西方に当たるところに最も多く、その他の方面にはきわめて少なかった。[地学雑誌 山上理学士]

 

同 28年12月18日(1895.12.18)
十二月十八日午後三時三十分頃、一大鳴動が起こり、黒煙が天を突き家屋の反響もまた甚だしく、焼石は同山の東麓に飛散したが、枯れ草が焼失した以外は人畜その他に被害はなかった。灰煙は東方向に吹き送られ、都城地方は硫黄臭の降灰がしきりにあり、顔を向けられない。また南那珂郡飫肥あたりも降灰があった。続いて同二十一日午後一時十五分、再び鳴動、噴煙が甚だしく、山間の村落は一時、視界がきかない状態なった。しかしまた幸いに被害を被ったものはないという。[地学雑誌]

 

在宮崎県の某氏からの通信・・・「昨年十二月十八日午後三時十五分頃、富士旅舎で休息中に大きな鳴響を感じました。一時間ほど経って、霧島岳の方向に当たる空中に黒煙を見受けました。そうしたところまた去る二十一日に鵜戸村の烏帽子峠の上で測点の建設中に、轟然一発。その後およそ三・四十分経ってここまで降灰があり、帽子、外套はもちろん眼の中へもいくらか風のために吹き入るぐらいでした。もっともこの日は西風が激しく、ここの海上までも届いた様子でした。前日の分は飫肥村内へもはっきり降灰があった由です。この日は風向は北西だったでしょう。[同上]

噴火 その9

明治29年3月15日(1896.3.15)
午前八時十六分に爆発し、たまたま登山していたフランス海軍大主計リエール氏は、焼石に打たれて負傷し、案内人の吉松某は惨死した。[明治二十九年三月二十二日 大阪朝日新聞]

 

同 29年6月22日(1896.6.22)
夜十二時頃から鳴動し、降灰があった。[地質学雑誌]

 

同 29年6月26日(1896.6.26)
宮崎では前夜十二時頃少し鳴動し、今日午前一時過ぎには爆発音を聞いた。降灰があった。[明治二十九年六三二十日 大阪朝日新聞]

 

同 29年12月21日(1896.12.21)
去る十八日に噴火した霧島山は、二十一日午後一時十五分に再び爆発し、黒煙は東方向へなびき、都城付近の各村には降灰があった。[明治二十九年十二月二十九日 報知新聞]

 

同 30年5月3日(1897.5.3)
鳴動・噴煙を上げ、都城地方に降灰があった。茶葉および桑の木に多少の損害を与えた。[明治三十年五月十二日 東京朝日新聞]

 

同 30年6月25日(1897.6.25)
鹿児島では十二時頃、小雨に混じって微量の降灰があった。霧島山の火山灰を吹き送ってきたのだろう。[明治三十年六月二十七日 鹿児島新聞]

 

同 30年9月4日(1897.9.4)
午後八時に噴火が約十分間継続し、多少焼石を飛散させた。[明治三十年九月十七日 東京朝日新聞]

 

同 31年2月8日(1898.2.8)
午前一時に鳴動・噴煙を上げ、降灰があった。焼石が飛散した。同一時三十分頃、再び鳴動した。[明治三十一年二月十一日 鹿児島新聞]

 

同 31年3月11日(1898.3.11)
午後六時二十分頃に噴火・鳴動し、焼石を数町の範囲に飛散させた。震動はおよそ五分間だった。[震災予防調査会報告第二十九号]

 

午後七時に轟音を上げて爆発し、宮崎では戸障子が振動し、空は濛々として降灰があった。[明治三十一年三月二十日 佐賀自由新聞]

噴火 その10

明治31年12月26日から30日(1898.12.26~30)
十二月三十日の夜十一時頃、大きく鳴動し宮崎では降灰があった。あたかも雪が積もったようになった。数日前にも大きく鳴動したことがあった。[明治三十二年一月一日 宮崎新報]

 

松山市で十二月二十七日午前二時前後に、遠雷のような異様な音響が三回聞こえたが、北宇和郡明治村および吉野生村付近では、翌二十八日朝に山野の別なく一帯に灰が降っているのを発見した。[明治三十二年一月八日 松山市愛媛新聞]

 

高知市では十二月二十六日に降灰があった、・・・また十二月末から土佐国で数回の小地震(空振だろうか)を感じた。[明治三十二年一月八日 高知日報]

 

同 32年7月28日(1899.7.28)
午前一時三十分頃、遠雷のような鳴動が激しく、山麓の家屋は揺れた。黒煙を噴出した。[明治三十二年八月七日 東京朝日新聞]

 

同 32年9月12日(1899.9.12)
午前、鳴動し、宮崎に降灰があった。[明治三十二年九月十三日 時事新報]

 

同 32年10月13日(1899.10.13)
午前三時五分頃、鳴動し火煙を噴出した。黒煙は次第に東方向に向かって消え散り、鳴動は巨大な砲声のようで、次第に遠雷のようになり、約二分間継続した。[明治三十二年十月十五日 宮崎新報]

 

同 32年11月7日(1899.11.7)
朝、鳴動し、宮崎に降灰があった。[明治三十二年十一月八日 大阪毎日新聞]

 

同 33年2月16日(1900.2.16)
午前九時頃に噴火した。当時狩猟のために飼い犬七頭を引き連れて、霧島山西南山腹の字大尾ノ谷というところにやって来た五名の者はこの爆発に遭遇し、五名とも重傷を被り、内二名は後で死亡した。同所は噴火口からわずか八百間から千間の距離である。[明治三十三年二月二十四日 鹿児島新聞]

 

同 36年8月29日(1903.8.29)
爆発し、加久藤では強い鳴動を聞いた。[明治三十六年九月一日 九州日々新聞]

 

同 36年11月25日(1903.11.25)
午後八時二十五分頃に爆発した。宮崎町でも家屋が振動した。 [明治三十六年十一月二十七日 大阪毎日新聞]

 

今回の噴火は西岳村字牛ノ臑、馬渡、尾首山等におびただしく灰および砂礫を降らせ、牛ノ臑地内には拳大の焼石もあった。[明治三十六年十一月二十九日 鹿児島新聞]

噴火 その11

大正2年11月8日(1913.11.8)
大正二年五月十九日午前四時二十分頃、西諸県郡加久藤村で地震を感じ、引き続いて九月一日までに加久藤、真幸で百七十五回の地震が起きた。その後十月十七日から十九日までの三日間に三回の強震が起こったが、十一月八日午後十一時頃にいたって、ついに霧島山の爆発となった。焼石を噴出した。狭野(高原村)、西麓(高原村)、小林では遠雷のような音響を聞き、少し降灰があった。野尻、飯野では音響はあったが降灰はなかった。加久藤では音響とともに、噴火口上に火柱が見られた。少し降灰した。真幸は異常なかった。
加久藤および真幸では、翌九日午前三時四十分頃に強震一回、十日午前一時三十分頃に微弱震一回を感じた。[宮崎測候所報告による]

 

同  2年12月9日(1913.12.9)
午前四時十五分頃に爆発し、降灰は宮崎にまで及んだが、強い音を聞き震動があったのは都城以西の山麓に近い区域に限られ、宮崎では降灰も注意しない者は分からず、熟睡していた者は音響を聞かなかった。高原では大砲のような音響があり、激烈な震動が起きた。山上は火の塊に充たされ、三十分後に村の南西部落に微量の降灰があった。狭野では大きな爆発音を聞いたが、降灰はなかった。噴出した大小の火石は高千穂峰およびその山腹に撒き散らされ、星のような光を放っていた。西岳村字中ノ山付近には、周囲四・五寸の火石が降った。
本年二回の噴火は、去る明治三十六年十一月二十五日の爆発に比べて、著しく軽微だった。[宮崎測候所報告による]

 

同 3年1月8日(1914.1.8)
午前二時二十分頃、爆発した。宮崎では前回に比べて、爆発音が比較的強く、やや長くて約二十秒に達した。戸障子が震動したが、降灰はなかった。山麓の北諸県郡西岳村字牛臑方面では、栗の実大の噴石を降らし、御池から西方向の噴火口にやや近い小字赤道の一部落は、屋根の上に落下する音が轟々としたが荒襲方面には砂・灰ともに降らなかった。空振が波及しなかったのは日向国極北部の三田井、延岡方面で、爆発音は南方向全部から児湯郡全部に達し、田野、都城、鹿児島県姶良郡東襲山村には降灰があった。[同上]

 

曽於郡(そおぐん)、襲山(そのやま)、性空(しょうくう)、笈掛岳(おいかけだけ)、都濃(つの)、益貫(ますのき)、火常峯(ひとこみね)、脊門丘(せとお)、花堂(はなんどう)、松八重川(まつばえがわ)、東霧島(つまきりしま)、高原(たかはる)、高城(たかじょう)、穆佐(むかさ)、諸県郡(もろかたぐん)、蒲牟田(かまむた)、祓川(はらいかわ)、飫肥(おび)、
明治村(あけはるむら)、吉野生村(よしのぶむら)、牛臑(うしのすね)、加久藤(かくとう)、馬渡(まわたり)、真幸(まさき)、荒襲(あらそ)、児湯郡(こゆぐん)、姶良郡(あいらぐん)

雪上訓練

昨日と今日(12/4, 5)は雪上訓練を受講しました.スコット基地東方の棚氷上でキャンプを張った様子です.基地外へ調査に出る人は,このコースの受講が義務づけられています.

雪上訓練