噴火 その4
享保元年2月18日(1716.3.11)
夜、霧島山のうち小林・曽於郡境の笈掛岳の北の金剛界胎蔵界両部池あたりで新しく二カ所噴火した。これによって小林あたりは震動し、高原のうち花堂の松八重川は増水し、魚が死んで流れた。[三国名勝図会]
同 元年9月26日(1716.11.9)
九月二十六日の夜半頃から霧島の西岳が震動して、周囲三里半ほどは所々で噴火破裂し、そのためにその範囲にある山林および神社・仏閣等はことごとく焼失し、その他災害を受けたものは砂石が侵入した十二の外城(外城とは一ヵ村のことである)が焼失し、その家数六百軒(あるいは六百四軒)、負傷者三十一人、斃死した牛馬四百五頭、田畑六千二百四十町八反六畝十九歩、この農産高六万六千百八十二石あまり。その後三・四年の間、灰が降ってあたかも春霞のようだったという。(日本災異志による。損害統計は翌年正月の分も含めたようだ)
このとき高原の狭野社、神徳院、霧島東御在所社、錫杖院、小林の霧島中央宮、瀬戸尾寺および高原、高崎、小林等の民家、山林はみな燃えた。一書には、東霧島社もこの噴火で焼けたという。東霧島社は高城にある。[三国名勝図会]
霧島山両部池のあたりで、新たに大きく噴火した。高原の東霧島神社、狭野権現の社、神徳院の寺中、門前ならびに高原の野町、小林の瀬戸尾権現の社、ならびに別当寺はことごとく焼失、小林の山の九ヵ所の狩場が焼失、高原、高崎あたりは石・灰で田畑を多く埋めた。
東霧島社、狭野の神体は守って持ち出し、瀬戸尾社の神体は後日、焼け跡から掘り出した。今朝、福山町の者たち男女十一人が瀬戸尾へ参籠したところへ、山中が大噴火したので五人は焼死、六人はようやく命が助かり翌朝花堂まで下ったと、小林から申し出があった。[同上]
同 元年12月26日(1717.2.7)
霧島山の新しい噴火は二十九日までの四日間続き、大噴火。高原、高崎、庄内、高城、穆佐、都城、小林、倉岡、綾、高岡、須本、野尻のあたりまで石・灰が降り、田畑は大分損なわれ人馬も死亡した。[福島厳之介編纂 鹿児島県噴火書類]
十二月二十六日に、またまた噴火した。[日本災異志]