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関東大震災

東京大地震の問題は、関東大地震が今村が予想した相模湾付近を震源として起こり、主に懸念していた火災によって死者・行方不明者10万5千余人、全・半壊家屋20万余棟、焼失家屋21万余棟の甚大な被害を招くという、悲劇的な結末を迎えました。

当時、大森は汎大平洋学術会議に出席のためオーストラリア出張中でしたが、シドニーのリバービュー天文台長の案内で地震観測所の地震計の前に立ったその時、針が大きく振れ、記録を精査したところ東京近傍で起きたものであることを知って、愕然としたという話が残されています。
大森も往路の船中の雑談の中で、次の大地震が起きるは関東付近だろうと予想していますが、「私がそういうことを発表しては人心を動揺させる恐れがあるから、いよいよ確実だという信念を得るまでは公表致しません」と話していました。船中での予想的中を賞賛されて、「少なくとも60年後であろうと考えていました」と答えています。
一方、地震学教室の後を預かっていた今村は、発震後ただちに記録を調べ、約30分後には内外の新聞記者に対して調査結果と被害予測、以後の見通しを発表しました。
大森は帰国を急ぎますが、出発前から不調だった体調は帰路の船中でますます悪化し、そのまま東大病院に入院することになります。船を迎えに出た今村に対し、「今度の震災につき自分は重大な責任を感じている。譴責されても仕方はない」と述べ、1ヶ月後には後事を今村に託して亡くなります。
地震学教室と同時に震災予防調査会を預かることになった今村は、さっそく諸方面に働きかけて調査を依頼すると共に、『震災予防調査会報告 第百号』を「地震篇」「地震及津波篇」「建築物篇」「建築物以外の工作物篇」「火災篇」に分けて刊行しました。

両者の間の軋轢には感情的な問題もあったとはいえ、“置かれた立場の相違”が大きく関係していました。災害情報・危険情報の発信・受容のあり方について、 今なお古くて新しい問題を投げかけています。



震災予防調査会報告(100号パンフ)