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今村の孤立

関東大震災の悲惨な状況を前に、わが国における地震学の再構築は、差し迫った問題となりました。その年の暮、東京帝国大学理学部に地震学科が設置されますが、当時の観測所が本郷・筑波の2点のみであったのに対し、中央気象台は全国に地震観測網を有していました。

今村はすでに大正8年(1919)に「地震前知問題の研究費概算」という過去の地震活動調査と地殻変動調査によって、大地震を予知しようという膨大な費用を要する研究構想を立てていました。今回は震災予防調査会の幹事として、新しい研究機関としての「地震研究所」設立案を提出します。東京を初め3カ所に研究所、7カ所に付属観測所を置くというものでした。                その内容は微小地震観測と地殻変動観測を軸とし、それまでに行われてきた震災予防調査会の事業を、そのまま拡大する方向のものでした。必要とされる予算は臨時費425万円、経常費年額70万円、人員140人というものであり、震災予防調査会の経常費が年額3万円であったことを考えると、その計画はあまりに壮大に過ぎるものでした。野心的な今村案が受け入れられませんでしたが、その最大の理由は、前例のない膨大な経費によるものと思われます。

案への賛同者はほとんど無く、彼は孤立しますが、妥協しようとはしませんでした。また案の提出に際して、文部省との関係がこじれることもあったようで、「今村地震博士東京を逃げ出す 文部省に苛められて、例の研究室案が丸潰れ」などと、当時の新聞が報じています。軋轢を繰り返しながらも日本の地震学を背負ってきた大森・今村地震学のあり方は、岐路に立つことになります。