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初代所長・末広恭二

初代所長が地震学者でなく、造船工学を専門とする末広恭二であることには、誰しも意外の感を抱くでしょう。

彼は新聞記者、政治家、小説家を兼ねた末広鉄腸(てっちょう)の息子で、明治23年(1890) に東京帝国大学工科大学造船学科を卒業。長崎三菱造船所に勤務しますが、翌年には大学院に戻って講師を務めるかたわら、物理学科の聴講生となります。
そして明治44年(1911) には工科大学教授となり、大正7年(1918) の三菱造船所に研究所設立を提案し、その初代所長となります。
もともと地震動の問題に関しては大きな関心を持っており、地震動の正しく記録する方法について考えをめぐらし、後には地震動分解器というようなものを考案したりもしています。
彼の弟子であり、地震研究所2代目所長となった石本巳四雄の回想によると、末広の船舶模型の動揺研究を手伝った際に、「工科のような実験になってはいけない」と注意されたというところを見ても、彼が振動工学に基礎を置きながらも、より物理学的な視点に立ち、その点が大森・今村地震学とは異なる新しい研究体制を目指す、寺田寅彦や長岡半太郎たちの指向にかなうところがあったと思われます。寺田も「すべてが物理学者風であったようにみえる」と評しています。
今村の震災予防調査会の延長としての研究所案が受け入れられなかった理由としては、その膨大な予算規模の問題とともに、「物理学的視点」の問題が大きかったことを示すものでしょう。

末広恭二

中央が末広恭二

そして三菱造船所の研究所設立提言や所長就任に見られる政治的・実務的な能力も、地震研究所設立に当たっての総長古在由直の支持を得るのに役立ったと思われます。そのあたりについてははっきりした資料は見当たりませんが、計画実現への現実的な線路を敷いたのは、末広ではなかったかと推測されます。