石本巳四雄(みしお)の短すぎた一生

父が陸軍大臣を務めた家に生まれた石本は、兄弟がみな陸軍軍人になる中、東京帝国大学理科大学実験物理学科を卒業。同工科大学造船学科、三菱造船研究所勤務を経てフランス留学し、レポール・ランジュバンの下で音響学を学びます。 帰国後は、地震研究所に助教授として着任。末広から始まる新しい時代の流れを、定着させようという意図が働いていたと思われます。昭和8年(1933)には、第2代所長に就任。その才能はまず観測機器の開発において発揮され、なかでも水平振子シリカ傾斜計、石本式加速度計(当初は建造物や列車の振動測定が目的でした)の発明は、地震観測機器や地震工学の発展に、大きく寄与するものでした。そして本来門外漢であったはずの地震計測に関する研究が評価され、学士院賞を受賞。飯田汲事(くみじ)との共同研究の結果である、地震動の最大振幅と発生回数の関係式(石本-飯田の式)も大きな業績であり、地震の原因としてマグマの貫入説を主張しました。

また地震学と並行して音響工学の研究も進め、後には日本音響学会の初代会長に就任しています。さらに趣味も幅広く、水泳の古式泳法、音楽、謡曲、俳諧にまで及んでいます。彼には、『地震学より見たる日本の文化』『学人学語』『科学への道』などの著作もあり、その幅広い視野や関心には、寺田寅彦のあり方にもつながるものがあります。ちなみに『科学への道』は文庫化され、現在でも手軽に読むことができます。

彼の肖像写真からはとてもその年齢には見えませんが、1940 年脳溢血の再発により、わずか47 歳でその豊かな研究人生を閉じることになりました。彼が収集した江戸時代の鯰 絵をはじめとする種々の災害にまつわる版画は、石本コレクション『地震火災版画張交帳(ばりまぜちょう)』として東京大学総合図書館に、寄贈図書等は石本文庫として東京大学地震研究所図書室に残されています。また、石本式加速度地震計は、東京大学地震研究所の地震計展示室に展示され、2011年東北地方太平洋沖地震の揺れを記録しています。