ミルン『地震学総論』(その3)
ミルンのこの演説の注目すべき点は、前回までの純・地球科学的な基点をしっかり守りながらも、減災・防災の視野を失っていないところでしょう。地震がたびたび大きな災害に結びつかざるを得なかった日本では、それは差し迫った課題でしたが、『日本地震学会報告・目次』でもわかるように、他のお雇い外国人研究者にはあまり見られない姿勢でした。
たとえばフランス人建築技師J.Lescasse(J.レスカス)が、耐震性を考慮して建てた三菱会社倉庫を紹介するのに続き、当時すでに木造家屋と地震動の関係についての研究が始まっていたことにも触れています。そしてさらに驚かされるのは、現在ようやく一般にも知られるようになった「太平洋津波警報センター」や「緊急地震速報」のアイデアが、すでにこのときに始まっていることです。
明治10年(1877)、チリ沿岸で発生したM8.3の大地震による津波は、地元では多数、途中ハワイでも5人の死者を出しながら、北海道・千島にまで24時間かかって到達しました。彼は津波の速度の速さを指摘しながらも、電信を用いて発生を連絡すれば、大きな被害は免れるはずだと言います。
またそれほど遠距離でない東京・横浜間のような場合でも、最初に地震動を感じたところが電信で警報を発し、警報を受け取った側は大砲の音で人々に、地震動の到来を予告することを提案しているのです。すでに人工地震の実験に着手していることにも、驚かされます。
在日期間の短い他の雇い外国人と違い、日本人の妻を得、日本での生活が19年という長い年月に及ぶことになるミルンにとって、地震災害は対岸の火事ではなかったのでしょう。

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- 近代地震学以前
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- 『日本地震学会報告』の目次
- ミルン『地震学総論』(その1)
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- 濃尾地震から関東大地震まで
- 大森房吉と今村明恒(その1)
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- 初代所長・末広恭二
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- 談話会と『地震研究所彙報』
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- 2人の所長
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