大森房吉と今村明恒(その2)
大森房吉の震災予防調査会での活躍は以前にも触れましたが、お雇い外国人研究者の後を受けて大森は獅子奮迅の働きをしました。明治・大正期の地震学がときに「大森地震学」と呼ばれることが、よくそれを表しています。
彼の多くの業績の中から代表的なものとしては、
1.大森式水平振子地震計(大森式地動計)の開発
2.「大森の絶対震度階」の 設定
3.余震の減少等に関する研究
4.初期微動と震源距離の関係式の研究
などが挙げられますが、その中心をなす性格は、「統計的地震学」といえるものです。たとえば彼は地震と気象との関連に関心を持っていましたが、地震頻度と気圧の相関を見ようとしていることなどもその一例でしょう。
大森式長周期地震計
特に初期の地震学の発展は、精度・信頼性の高い地震計の開発と共にありました。中央気象台の観測業務に当初用いられたのは、ユーイング式かすがい地震計、グレイ=ミルン=ユーイング式地震計などでしたが、やがて彼が開発した大森式地動計・微動計・簡単微動計が併置されるようになります。そして各測候所から中央気象台に集められた観測資料を受けて、震源地を決定し公表するのは大森個人にゆだねられていました。地震観測における中央気象台の東京帝国大学地震学教室からの独り立ちは、中央気象台長・岡田武松を待たなければなりませんでした。
またたとえば、サンフランシスコで「地震学における世界最高の権威者」と紹介されるなど、彼の国際的な活躍も見逃すわけにはいきません。ブリタニカ百科事典(1902)などは、「奇妙に見えるだろうが、地震現象に関する研究の進歩および関心の世界的な拡大は、日本での成果から始まった」 と記しています。インド・カングラ地震(1905)、サンフランシスコ地震(1906)、イタリア・メッシナ地震(1907)と、立て続けに外国へ現地派遣されたりもしています。