世界初の地震学教授
明治18年(1885)に東京大学理学部は本郷に移転し、一ツ橋の地震学実験所はそのまま残し、本郷にも新たに地震学実験所が設けられました。関谷清景(〝きよかげ〟、後に〝せいけい〟)は物理学教授ユーイングの助手として、彼を助けます。
翌明治19年(1886)、新しい組織となった東京帝国大学に理科大学ができると、世界初の地震学が開講され、関谷が教授となりました。しかし当時、地震学はまだ独立した学問と認められておらず、主に聴講したのは工科大学の土木工学科や造家学科の学生だったようです。明治26年(1893)には講座制が布かれ、地震学講座が誕生することになります。
明治20年代には、明治21年(1888)に山体崩壊を起こした結果、死者477人、5村11集落がほぼ埋没という磐梯山噴火(美しい五色沼は、この山体崩壊が生んだものです)、明治22年(1889)熊本地震、明治24年(1891)のM8.0とわが国最大の内陸地震で、死傷者2万4千余人、全半壊家屋24万余棟の被害を出した濃尾地震と、大きな爪跡を残す地変が続きました。関谷は鉄道の発達も不十分な中、病躯を押してこれらの現地災害調査にも出向き、特に庶民の関心の高かった磐梯山噴火については、大学通俗講談会を開いて講演し、会場は満員だったと伝えられています。
その無理が、ロンドン留学中に罹患したのではないかといわれる肺結核をさらに悪化させるこことなり、後に述べる震災予防調査会の委員を命じられたのも、大学を休職して何度目かの神戸での療養中のことでした。そして40歳の若さで、世を去ることとなります。
関谷による地震動の針金模型の図
関谷清景